神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
勧賞によりて同母の御兄四品成良のみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月にもなりぬ。高氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍て都には元弘偽主の御弟に、三の御子豊仁と申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。左衛門督実世の卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてまし〳〵き。御心をやすめ奉らんためにや、成良親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月にしのびて都を出まし〳〵て、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ。行宮をつくりてわたらせ給。
書き下し
勧賞によりて同母の御兄四品成良のみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月にもなりぬ。高氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍て都には元弘偽主の御弟に、三の御子豊仁と申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。左衛門督実世の卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてましましき。御心をやすめ奉らんためにや、成良親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月にしのびて都を出ましまして、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ。行宮をつくりてわたらせ給。
現代語訳
勧賞によって、同母の兄である四品成良親王を越えられた。顕家卿はわざと賞を願い出なかったという。義貞朝臣は筑紫へ下ったが、播磨国に朝敵の仲間がいるとして、まずこれを退治すべきだとして日を送るうちに、五月にもなった。高氏らは西国の凶徒を語らって、重ねて攻め上ってきた。官軍は利がなくて都に帰参したので、同月二十七日に(天皇は)また山門に臨幸された。八月に至るまでたびたび合戦があったが、官軍はあまり進まなかった。よって都では、元弘の偽主の弟で、第三皇子の豊仁と申した方を位にお即け申した。十月十日の頃であったか、主上が都にお出ましになったのは、まことに嘆かわしいことであったが、また行く末をお考えになるところがあったのであろう。東宮は北国に行啓された。左衛門督実世卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめとして、しかるべき兵も大勢お仕えした。主上は尊号の扱いでおられた。お心を安め申すためであろうか、成良親王を東宮にお据え申した。同年十二月、ひそかに都を出られて、河内国の正成といった者の一族らを召し連れて、吉野にお入りになった。行宮を造ってお住まいになった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇もとのごとく存位の儀にてぞましましける。内侍所もうつらせ給、神璽も御身にしたがへ給けり。まことに奇特のことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵をおこす輩もはべりき。臨幸の後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。又の年戊寅の春二月、鎮守大将軍顕家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々ことごとくたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入、奈良の京になんつきにける。それより所々の合戦あまたゝび互に勝負侍りしに、同五月和泉国にてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍て社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたびたびめされしかど、のぼりあへず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ふばかりなし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代の重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆なり。かゝりしあひだに、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿この乱をきゝて、親王をさきに立奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率してせめのぼる。同十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒までも万歳をよばひき。同十六日より合戦はじまりて三十日つひに朝敵を追落す。やがて其夜還幸し給。高氏等猶摂津国にありときこえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国へなむおちにけり。諸将および官軍はかつがつかへりまゐりしを、東国の事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給べし、顕家卿も任所にかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさる。かくて親王元服し給。直に三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼国の太守は始たることなれど、たよりありとてぞ任じ給。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇符契をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国西の宮と云所にてぞきかせましましける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給て、都にすませましましける。されど新帝は偽主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶と云しをも本のごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月よりさきのまゝにてぞありし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇されど坊には後伏見第一の御子、量仁親王ゐさせ給。かくて元弘辛未の年八月に俄に都をいでさせ給、奈良の方に臨幸ありしが、其所よろしからで、笠置と云山寺のほとりに行宮をしめ、御志ある兵をめし集らる。たびたび合戦ありしが、同九月に東国の軍おほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所にうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅とて承久よりこなたしめたる所に御幸ある。御供にはべりし上達部・うへのをのこどもゝあるひはとられ、或はしのびかくれたるもあり。かくて東宮位につかせ給。つぎの年の春隠岐国にうつらしめまします。御子たちもあなたかなたにうつされ給しに、兵部卿護良親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵をおこさんとくはたて給ける。河内国に橘正成と云者ありき。御志ふかゝりければ、河内と大和との境に、金剛山と云所に城をかまへて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国の軍をあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇同風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、この二のふねおなじ風にて東西にふきわけゝる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲の君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国はもとより心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守も次の年の春かさねて下向して、おのおの国につきはべりにき。さても旧都には、戊寅の年の冬改元して暦応とぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元の号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国には例なし。されど四とせにもなりぬるにや。大日本嶋根はもとよりの皇都也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給てかくれましましぬとぞきこえし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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