神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場と云所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。東にも上野国に源義貞と云者あり。高氏が一族也。世の乱におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時等運命きはまりにければ、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。
書き下し
高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場と云所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。東にも上野国に源義貞と云者あり。高氏が一族也。世の乱におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時等運命きはまりにければ、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。
現代語訳
高氏も都へ差し上らせられたが、疑いを逃れようとしてか、(幕府に背かないという)告文を書き置いて出発した。けれども神仏の照覧も顧みず、心変わりして味方(天皇方)に参じた。官軍が力を得たまま、五月八日の頃であったか、都にいた東国の軍はみな敗れて、東国を目指して落ちていったが、両院と新帝も同じく御幸された。近江国の馬場という所で、味方に志ある者たちが打って出たので、武士たちは戦うまでもなく自滅した。両院と新帝は都にお返し申しあげ、官軍がこれをお守り申した。こうして都から西の方がほどなく鎮まったと聞こえたので、(天皇は)還幸なさった。まことに珍しいことであった。東国でも、上野国に源義貞(新田義貞)という者がいた。高氏の一族である。世の乱れに思いを起こし、いくらもない軍勢で鎌倉に攻め寄せたところ、高時らの運命が極まっていたので、国々の兵がつき従うさまは風が草をなびかせるようであった。五月二十二日であったか、高時をはじめとして多くの一族がみな自害したので、鎌倉もまた平らいだ。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえばえしくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇世の中みだれ立にし。次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆につかせ給。其国に源長年と云者あり。御方にまゐりて船上と云山寺にかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。彼あたりの軍兵しばらくはきほひておそひ申けれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものよりよりうちいづれば、合戦もたびたびになりぬ。京中さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山に陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光と云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎつぎ御方にまゐる輩おほくなりにけり。源高氏ときこえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云しが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏は平義時朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇符契をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国西の宮と云所にてぞきかせましましける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給て、都にすませましましける。されど新帝は偽主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶と云しをも本のごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月よりさきのまゝにてぞありし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕することもなし。たゞ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、地下前駈二十人の中に相加れり。たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力といひがたし。武士たる輩、いへば数代の朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望をも企はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推がいましめも習しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中々猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代の重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆なり。かゝりしあひだに、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿この乱をきゝて、親王をさきに立奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率してせめのぼる。同十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒までも万歳をよばひき。同十六日より合戦はじまりて三十日つひに朝敵を追落す。やがて其夜還幸し給。高氏等猶摂津国にありときこえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国へなむおちにけり。諸将および官軍はかつがつかへりまゐりしを、東国の事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給べし、顕家卿も任所にかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさる。かくて親王元服し給。直に三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼国の太守は始たることなれど、たよりありとてぞ任じ給。
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