神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
と申ならはしたるを、白河の御時、修理のかみ顕季といひし人、院の御めのとの夫にて、時のきら並人なかりしが、この労をつのりて参議を申けるに、院の仰に、「それも物かきてのうへのこと」ゝありければ、理にふしてやみぬ。此人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給けりときこえたり。あまり譜第をのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよ〳〵みだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。但才もかしこく徳もあらはにして、登用せられむに、人のそしりあるまじき程の器ならば、今とてもかならず非重代によるまじき事とぞおぼえ侍る。
新字:と申ならはしたるを、白河の御時、修理のかみ顕季といひし人、院の御めのとの夫にて、時のきら並人なかりしが、この労をつのりて参議を申けるに、院の仰に、「それも物かきてのうへのこと」ゝありければ、理にふしてやみぬ。此人は歌道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給けりときこえたり。あまり譜第をのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよ〳〵みだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。但才もかしこく徳もあらはにして、登用せられむに、人のそしりあるまじき程の器ならば、今とてもかならず非重代によるまじき事とぞおぼえ侍る。
書き下し
と申ならはしたるを、白河の御時、修理のかみ顕季といひし人、院の御めのとの夫にて、時のきら並人なかりしが、この労をつのりて参議を申けるに、院の仰に、「それも物かきてのうへのこと」ゝありければ、理にふしてやみぬ。此人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給けりときこえたり。あまり譜第をのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよいよみだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。但才もかしこく徳もあらはにして、登用せられむに、人のそしりあるまじき程の器ならば、今とてもかならず非重代によるまじき事とぞおぼえ侍る。
現代語訳
と言い慣わしていたところ、白河院の御時に、修理大夫顕季という人が、院の乳母の夫で、当時並ぶ人のない権勢であったが、この年功を積み立てて参議を願い出た。院の仰せに「それも物が書けてのうえのことだ」とあったので、道理に伏して沙汰やみとなった。この人は歌の道などでも誉れがあったのだから、物が書けないほどのことがあったろうか。また参議になれないほどの人でもなかったろうが、和漢の才学が足りなかったのであろう。白河院の御代までは、よく官を重んじられたと聞こえている。あまりに家柄ばかりを取られても、賢才が出てこない端緒になるので、上古に及びがたいことを恨む者もいるが、昔のままではいよいよ乱れるにちがいないので、家柄を重んじられたのも道理である。ただし、才も優れ徳もはっきりしていて、登用されても人の非難がありそうにないほどの器ならば、今であっても、代々の家柄でないからといって必ずしも退けるべきではないと思われる。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇天道も神明もいかにともせぬことなれど邪なるものは久しからずしてほろび、乱たる世も正にかへる、古今の理なり。これをよくわきまへしるを稽古と云ふ。昔人をえらびもちゐられし日は先徳行をつくす。徳行おなじければ、才用あるをもちゐる。才用ひとしければ労効あるをとる。又徳義・清慎・公平・恪勤の四善をとるともみえたり。格条には「朝に廝養たれども夕に公卿にいたる。」と云ことの侍るも、徳行才用によりて不次にもちゐらるべき心なり。寛弘よりあなたには、まことに才かしこければ、種姓にかゝはらず、将相にいたる人もあり。寛弘以来は、譜第をさきとして、其中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世の末に、みだりがはしかるべきことをいましめらるゝにやありけん、「七け国の受領をへて、合格して公文といふことかんがへぬれば、参議に任ず。」
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇平治より後、平氏世をみだりて二十六年、文治の初、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久に義時世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世を一にしらせ給ことたえにしに、此天皇の御代に掌をかへすよりもやすく一統し給ぬること、宗廟の御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞ仰奉りける。同年冬十月に、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になしてつかはさる。代々和漢の稽古をわざとして、朝端につかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途の方にもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、たびたびいなみ申しかど、「公家すでに一統しぬ。文武の道二あるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくは軍の大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏たるべし。」とおほせ給て、御みづから旗の銘をかゝしめ給、さまざまの兵器をさへくだしたまはる。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。
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