神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕することもなし。たゞ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、地下前駈二十人の中に相加れり。たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力といひがたし。武士たる輩、いへば数代の朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望をも企はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推がいましめも習しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中〳〵猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。
書き下し
はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕することもなし。たゞ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、地下前駈二十人の中に相加れり。たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力といひがたし。武士たる輩、いへば数代の朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望をも企はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推がいましめも習しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中々猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。
現代語訳
はたして(頼朝の)子孫が早く絶えたのも、高官がもたらしたことかと言い伝えている。高氏らは、頼朝・実朝の時代に親族などとして手厚く扱われることもなく、ただ家人の列であった。実朝公が八幡宮に拝賀した日も、地下の前駆二十人の中に加わっていた。たとえ頼朝の子孫であっても、今さら登用すべきだとは思われない。まして長く(北条氏の)家人であった者である。これという大功もないのに、このように抜きん出た賞を受けるべきものかと、いぶかしく申す者もあったという。関東の高時の天命がすでに尽きて、君の御運が開けたことは、まったく人の力とは言いがたい。武士たちは、言ってみれば数代にわたる朝敵である。味方に参じて家を失わなかっただけでも、あり余る皇恩である。さらに忠を尽くし、労を積んでこそ、道理にかなった望みをも企てるべきである。それなのに、天の功を盗んで自分の功と思っている。介子推の戒めも、習い知る者がいないのであろう。こうして高氏の一族でない者たちも大勢昇進し、昇殿を許される者もあった。だからある人は、「公家の御世に返ったかと思ったのに、かえってなお武士の世になってしまった」と申された。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見の命の中州をしづめ、皇極の御宇に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとゝ云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことゝ思あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経五位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日地下の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえばえしくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場と云所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。東にも上野国に源義貞と云者あり。高氏が一族也。世の乱におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時等運命きはまりにければ、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇闕所をもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝の領までもきほひ申けりとぞ。をさまらんとしていよいよみだれ、やすからんとしてますますあやふくなりにける、末世のいたりこそまことにかなしく侍れ。凡王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必これを身の高名とおもふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、其あとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政なり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分の望をいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強なるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝも理なり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと云ふ制符たびたびありき。
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