神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見の命の中州をしづめ、皇極の御宇に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとゝ云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことゝ思あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経五位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日地下の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。
書き下し
されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見の命の中州をしづめ、皇極の御宇に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとゝ云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことゝ思あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経五位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日地下の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。
現代語訳
けれども(清盛は)朝敵となってやがて滅亡したので、後の例には引きがたい。頼朝はそれにもまして一身の力で平氏の乱を平らげ、(後白河院の)二十余年のお憤りを安めたてまつった。昔、神武天皇の御時に宇麻志麻見命が中州を鎮め、皇極天皇の御代に大織冠(藤原鎌足)が蘇我の一門を滅ぼして皇家を全うしてから後は、比べるものがないほどの勲功であろうか。それでさえ、上京したとき大納言・大将に任じられたのを、固く辞退申したのに押して任じられたのであった。公私にとっての災いであったろうか。その子は彼の跡継ぎなので、大臣・大将になってやがて滅んだ。まったく跡というものもない。天意に背いたのだと見える。君もこうした例を始められたので、大功のない者までもみな、こうあるべきことだと思い合うようになった。頼朝は、自分がこうだからといって、兄弟一族を固く抑えたのであろうか。義経は五位の検非違使で終わった。範頼が三河守であったのを、頼朝の拝賀の日には地下の前駆に召し加えた。驕る心が見えたからであろうか、この二人の弟もついに滅ぼした。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 徳政なくして頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況や其跡たえて後室の尼公陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるきすがたやうやうおとろへ、後白河の御時兵革おこりて姦臣世をみだる。天下の民ほとんど塗炭におちにき。頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめんとにやありけん。 先祖経基はちかき皇孫なりしかど、承平の乱に征東将軍忠文朝臣が副将として彼が節度をうく。其より武勇の家となる。其子満仲より頼信、頼義、義家相続で朝家のかためとしてひさしく召仕る。上にも朝威ましまし、下にも其分にすぎずして、家を全し侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみして誅にふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。さればよく先蹤をわきまへ、得失をかむがへて、身を立、家をまたくするこそかしこき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、みなあるべきことゝおもひ、為義、義朝が逆心をよみして、亡たるゆゑをしらず。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院其後将門がみだれに右衛門督忠文朝臣征東将軍を兼て節刀を給しよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中に軍をおこし対治せんとせしに事不成して中々あさましき事なんいできにし。東国の頼朝、弟範頼・義経等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾もほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕することもなし。たゞ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、地下前駈二十人の中に相加れり。たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力といひがたし。武士たる輩、いへば数代の朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望をも企はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推がいましめも習しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中々猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申けれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜してほどなく再興す。供養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことありて御出家、隠岐国にてかくれ給ぬ。六十一歳おましましき。
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