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神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇

平治より後、平氏世をみだりて二十六年、文治の初、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久に義時世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世を一にしらせ給ことたえにしに、此天皇の御代に掌をかへすよりもやすく一統し給ぬること、宗廟の御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞ仰奉りける。同年冬十月に、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になしてつかはさる。代々和漢の稽古をわざとして、朝端につかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途の方にもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、たび〳〵いなみ申しかど、「公家すでに一統しぬ。文武の道二あるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくは軍の大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏たるべし。」とおほせ給て、御みづから旗の銘をかゝしめ給、さま〴〵の兵器をさへくだしたまはる。

書き下し

平治より後、平氏世をみだりて二十六年、文治の初、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久に義時世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世を一にしらせ給ことたえにしに、此天皇の御代に掌をかへすよりもやすく一統し給ぬること、宗廟の御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞ仰奉りける。同年冬十月に、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になしてつかはさる。代々和漢の稽古をわざとして、朝端につかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途の方にもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、たびたびいなみ申しかど、「公家すでに一統しぬ。文武の道二あるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくは軍の大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏たるべし。」とおほせ給て、御みづから旗の銘をかゝしめ給、さまざまの兵器をさへくだしたまはる。

現代語訳

平治の乱より後、平氏が世を乱して二十六年、文治の初めに頼朝が権力をほしいままにしてから父子が相次いで三十七年、承久に義時が世を取り仕切ってから百十三年、あわせて百七十余年のあいだ、朝廷が世を一つに治められることは絶えていた。それなのにこの天皇の御代に、手のひらを返すよりもたやすく天下を一つにされたことは、宗廟のお計らいにも時節があったのだと、天下こぞって仰ぎ申しあげた。同年の冬十月、まず東国の奥を鎮めるべきだとして、参議右近中将源顕家卿(北畠顕家)を陸奥守に任じて遣わされた。(わが家は)代々、和漢の学問を務めとして、朝廷に仕え政務に加わる道だけを学んできた。地方官の務めにも慣れず、武勇の芸にも携わらないので、たびたび辞退申しあげたが、「朝廷はすでに天下を一つにした。文武の道が二つに分かれていてはならない。昔は皇子・皇孫、もしくは執政の大臣の子孫こそが、多く軍の大将に任じられたものだ。今より武を兼ねて朝廷の守りとなれ」と仰せになって、御みずから旗の銘をお書きになり、さまざまな武具までもお下しになった。

解説

前半は、平治の乱から数えて百七十余年、朝廷が天下を一つに治めることが絶えていたと総括する。平氏二十六年、頼朝父子三十七年、北条氏百十三年と、武家の世を年数で区切って並べ、それが「掌をかへすよりもやすく」一統されたと書く。後半は陸奥守に任じられた北畠顕家の話で、顕家は親房の長男である。親房は自分の息子のことを、家の者としてではなく一人の廷臣として記している。家は代々学問をもって仕えてきたので、地方の政治にも武芸にも慣れないと何度も辞退したが、天皇は「文武の道二あるべからず」と言って旗の銘を自ら書き、武具を与えた。巻四で親房は、文武の二つはしばらくも捨ててはならないと説いていた。その理念を、公家の家に武の務めを負わせるという形で、自分の家が引き受けることになったのである。

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