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神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇

されど坊には後伏見第一の御子、量仁親王ゐさせ給。かくて元弘辛未の年八月に俄に都をいでさせ給、奈良の方に臨幸ありしが、其所よろしからで、笠置と云山寺のほとりに行宮をしめ、御志ある兵をめし集らる。たび〳〵合戦ありしが、同九月に東国の軍おほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所にうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅とて承久よりこなたしめたる所に御幸ある。御供にはべりし上達部・うへのをのこどもゝあるひはとられ、或はしのびかくれたるもあり。かくて東宮位につかせ給。つぎの年の春隠岐国にうつらしめまします。御子たちもあなたかなたにうつされ給しに、兵部卿護良親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵をおこさんとくはたて給ける。河内国に橘正成と云者ありき。御志ふかゝりければ、河内と大和との境に、金剛山と云所に城をかまへて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国の軍をあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。

書き下し

されど坊には後伏見第一の御子、量仁親王ゐさせ給。かくて元弘辛未の年八月に俄に都をいでさせ給、奈良の方に臨幸ありしが、其所よろしからで、笠置と云山寺のほとりに行宮をしめ、御志ある兵をめし集らる。たびたび合戦ありしが、同九月に東国の軍おほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所にうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅とて承久よりこなたしめたる所に御幸ある。御供にはべりし上達部・うへのをのこどもゝあるひはとられ、或はしのびかくれたるもあり。かくて東宮位につかせ給。つぎの年の春隠岐国にうつらしめまします。御子たちもあなたかなたにうつされ給しに、兵部卿護良親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵をおこさんとくはたて給ける。河内国に橘正成と云者ありき。御志ふかゝりければ、河内と大和との境に、金剛山と云所に城をかまへて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国の軍をあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。

現代語訳

しかし東宮には後伏見院の第一皇子、量仁(かずひと)親王がお立ちになった。こうして元弘辛未の年(一三三一年)八月に、(天皇は)急に都を出られ、奈良の方に行幸されたが、そこが具合が悪かったので、笠置という山寺のほとりに行宮を構え、志ある兵を召し集められた。たびたび合戦があったが、同年九月に東国の軍勢が大勢集まって上ってきて、事が難しくなったので、ほかの所へお移りになったところ、思いのほかのことが起こって、六波羅という、承久以来(鎌倉方が)占めていた所へお出ましになることになった。お供をしていた公卿や殿上人たちも、ある者は捕らえられ、ある者は忍び隠れた。こうして東宮が位にお即きになった。次の年の春、(天皇は)隠岐国にお移りになった。皇子たちもあちらこちらに移されなさったが、兵部卿護良親王は山々をめぐり、国々を促して義兵を起こそうと企てられた。河内国に橘正成(楠木正成)という者がいた。(天皇への)志が深かったので、河内と大和との境の金剛山という所に城を構え、近国を攻め平らげた。東国から諸国の軍勢を集めて攻めたが、固く守ったので、たやすく落とすことはできなかった。

解説

元弘の変を記した段である。親房の筆づかいに注意したい。天皇が捕らえられて六波羅へ送られたことを「おもひの外のこといできて」「御幸ある」と書き、隠岐への配流を「隠岐国にうつらしめ」と書く。起きたことは隠さないが、天皇を主語にした敬語で包んで記している。鎌倉方に擁立された光厳天皇については「東宮位につかせ給」とあるだけで、代の数も世の数も与えない。親房はこの天皇を皇統の数に入れていないのである。そのうえで反撃の担い手が登場する。山々をめぐって兵を募った護良親王と、金剛山に城を構えて東国の大軍を防いだ楠木正成である。正成は「橘正成と云者ありき」と、名もない地方の武士として控えめに紹介される。のちに忠臣の典型とされる人物の、最初の姿がこれである。

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