神皇正統記 / 巻六 第九十三代 後二条院〜第九十四代 花園天皇
第九十三代、後二条院。諱は邦治、後宇多第二の子。御母西花門院、源基子、内大臣具守の女なり。辛丑の年即位、壬寅に改元。天下を治給こと六年有て、世をはやくし給。二十四歳おまし〳〵き。 ○第九十四代の天皇。諱は富仁、伏見第三の子。御母顕親門院、藤原季子、左大臣実雄の女也。戊申の歳即位、改元。父の上皇世をしらせ給しが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇しらせまします。法皇かくれ給ても諒闇の儀なかりき。上皇御猶子の儀とぞ。例なきこと也。天下を治給こと十一年にてのがれ給。尊号例の如し。世の中あらたまりて出家せさせ給き。
書き下し
第九十三代、後二条院。諱は邦治、後宇多第二の子。御母西花門院、源基子、内大臣具守の女なり。辛丑の年即位、壬寅に改元。天下を治給こと六年有て、世をはやくし給。二十四歳おましましき。 ○第九十四代の天皇。諱は富仁、伏見第三の子。御母顕親門院、藤原季子、左大臣実雄の女也。戊申の歳即位、改元。父の上皇世をしらせ給しが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇しらせまします。法皇かくれ給ても諒闇の儀なかりき。上皇御猶子の儀とぞ。例なきこと也。天下を治給こと十一年にてのがれ給。尊号例の如し。世の中あらたまりて出家せさせ給き。
現代語訳
第九十三代、後二条院。諱は邦治(くにはる)、後宇多院の第二皇子である。母は西花門院、源基子で、内大臣(堀川)具守の娘である。辛丑の年(一三〇一年)に即位し、壬寅の年に改元した。天下を治められること六年で、早く世を去られた。二十四歳であられた。第九十四代の天皇。諱は富仁(とみひと)、伏見院の第三皇子である。母は顕親門院、藤原季子で、左大臣実雄の娘である。戊申の年(一三〇八年)に即位し、改元した。父の上皇(伏見院)が院として世を治めておられたが、ご出家の後はその御譲りによって、兄の上皇(後伏見院)が治められた。法皇(伏見院)がお亡くなりになっても、(天皇は)父の喪に服する諒闇の儀を行われなかった。兄の上皇の猶子という扱いであったからだという。例のないことである。天下を治められること十一年で位を退かれた。尊号は例のとおりである。世の中が改まって出家なさった。
解説
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