神皇正統記 / 巻五 第八十九代 亀山院
第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁、後深草院同母の御弟也。己未の年即位、庚申に改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹に皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給ぬ。後深草の御子もさき立て生給しかどもひきこされましにき。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀大宮院にたづね申けるに、先院の御素意は当今にましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中にて政務せさせ給。天下を治給こと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おまし〳〵き。
書き下し
第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁、後深草院同母の御弟也。己未の年即位、庚申に改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹に皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給ぬ。後深草の御子もさき立て生給しかどもひきこされましにき。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀大宮院にたづね申けるに、先院の御素意は当今にましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中にて政務せさせ給。天下を治給こと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おましましき。
現代語訳
第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁、後深草院と同じ母の弟である。己未の年(1259年)に即位し、庚申に改元した。後嵯峨院はこの天皇を皇統の継承者とお考えになっていたのであろうか、皇后腹に皇子がお生まれになったのを、後嵯峨院が引き取ってお育てになり、早々に皇太子にお立てになった。後深草院の御子も先に生まれておられたけれども、追い越されてしまった。後嵯峨院がお隠れになって後、兄弟の間で争われることがあったので、鎌倉から母の大宮院にお尋ね申したところ、先院の本意は今の帝(亀山天皇)にあると仰せ遣わされたので、事が定まって、宮中で政務をとられた。天下を治められたこと十五年。皇太子に位を譲り、尊号は例のとおりであった。院中でも十三年まで世を治められた。事態が改まった後、御出家なさった。五十七歳であられた。
解説
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