神皇正統記 / 巻五 第八十代 高倉院
頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝々臣が子頼朝平治の乱に死罪を申なだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨をうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよ〳〵悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄に避位のことありしも世をいとはせまし〳〵けるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりければ、安芸の厳嶋になむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おまし〳〵き。
書き下し
頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝々臣が子頼朝平治の乱に死罪を申なだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨をうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよいよ悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄に避位のことありしも世をいとはせましましけるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりければ、安芸の厳嶋になむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おましましき。
現代語訳
頼政も滅んだ。しかしながら、それから世は乱れはじめた。義朝朝臣の子頼朝は、平治の乱で死罪になるところを取りなす人があって伊豆国に流され、長い年月を送っていたが、以仁王の密かな令旨を受け、院(後白河院)からもひそかに仰せを伝える手立てがあったので、東国の武士をすすめて義兵を起こした。清盛はいよいよ悪行ばかりを重ねたので、主上は深くお嘆きになった。にわかに位を退かれたのも、世をお厭いになったゆえだという。天下を治められたこと十二年。世の中のための祈りであったろうか、平家がとりわけ崇め申す神であったので、安芸の厳島に御幸なさった。この帝は御心ばえも立派で、孝行の御志が深かった。管絃の方面もすぐれておられた。尊号を受けて、ほどなく早くお亡くなりになった。二十一歳であられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十代 高倉院第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河第五の御子。御母皇后平滋子、贈左大臣時信の女也。戊子の年即位、己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其女徳子入内して女御とす。即立后ありき。末つかたやうやう所々に反乱のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行などもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよいよおごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長のおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政と云しもの、院の御子似仁の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。
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『神皇正統記』巻五 徳政なくして頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況や其跡たえて後室の尼公陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるきすがたやうやうおとろへ、後白河の御時兵革おこりて姦臣世をみだる。天下の民ほとんど塗炭におちにき。頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申けれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜してほどなく再興す。供養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことありて御出家、隠岐国にてかくれ給ぬ。六十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院信頼が非をばいさめ申けれど、わが子共は顕職顕官にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟せられにき。義朝重代の兵たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせたりしこと大なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申替ともみづから退とも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅することは天の理也。凡かゝることは其身のとがはさることにて、朝家の御あやまり也。よく案あるべかりけることにこそ。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見の命の中州をしづめ、皇極の御宇に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとゝ云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことゝ思あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経五位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日地下の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。
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『神皇正統記』巻五 王者の軍縦又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給はじ。次に王者の軍と云は、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。
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