神皇正統記 / 巻五 第八十代 高倉院
第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河第五の御子。御母皇后平滋子、贈左大臣時信の女也。戊子の年即位、己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其女徳子入内して女御とす。即立后ありき。末つかたやう〳〵所々に反乱のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行などもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよ〳〵おごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長のおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政と云しもの、院の御子似仁の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。
書き下し
第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河第五の御子。御母皇后平滋子、贈左大臣時信の女也。戊子の年即位、己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其女徳子入内して女御とす。即立后ありき。末つかたやうやう所々に反乱のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行などもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよいよおごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長のおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政と云しもの、院の御子似仁の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。
現代語訳
第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河天皇の第五の御子である。御母は皇后平滋子で、贈左大臣時信の娘である。戊子の年(1168年)に即位し、己丑に改元した。上皇(後白河院)が天下を治められることはもとのとおりである。清盛が権勢を独占したのは、とりわけこの御代のことである。その娘の徳子が入内して女御となった。すぐに立后があった。御代の末ごろ、だんだんとあちこちで反乱の噂が聞こえた。清盛一家の分を越えたふるまいが天の意に背いたのである。嫡子の内大臣重盛は心ばえが賢くて、父の悪行なども諫め止めていたのに、その人さえ早く亡くなった。清盛はいよいよ驕りをきわめ、権を思うままにした。時の摂関であった菩提院の関白基房の大臣がおられたのも、仲がうまくいかないことがあって、大宰権帥に移して配流された。妙音院の師長の大臣も京の外へ出された。そのほか罪せられた人が多かった。従三位源頼政という者が、院の御子で似仁の王(以仁王)といって元服だけはなさったが、親王の宣旨さえなくて、日の当たらないところにおられた宮をおすすめ申して、国々にいる源氏の武士たちに呼びかけ、平氏を滅ぼそうと謀った。事が露見して、皇子も亡くなられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十代 高倉院頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝々臣が子頼朝平治の乱に死罪を申なだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨をうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよいよ悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄に避位のことありしも世をいとはせましましけるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりければ、安芸の厳嶋になむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云人あり。上皇いみじく寵せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛の大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝々臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。
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『神皇正統記』巻五 第八十一代 安徳天皇第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉第一の子。御母中宮平徳子、太政大臣清盛女他。庚子の年即位、辛丑に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよいよおごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛其あとをつぎぬ。世の乱をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申て西海に没落す。中みとせばかりありて、平氏ことごとく滅亡。清盛が後室従二位平時子と云し人此君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おましましき。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申なり。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讃岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条の院、藤原殖子、入道修理大夫信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引申さず。よりて太上法皇の詔にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子ましまししかども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。
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