神皇正統記 / 巻五 第七十二代 白河院
院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。
書き下し
院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。
現代語訳
円融院の御前で摂政兼家の大臣が院の仰せを承って、源時中朝臣を参議に任じたというので、小野宮の実資の大臣などは首をかしげて非難申されたという。されば上皇がおられても、主上が幼くおられる時は、ひたすら摂関(執柄)の政であった。宇治の大臣(藤原頼通)の世となってからは、三代の君の執政として、五十余年も権勢を独占された。先代には、関白を退いた後は名目上の礼遇にとどまっていたのに、あまりにも度を越したからであろうか、後三条院は東宮の御時から頼通を快く思っておられないと噂されて、御仲が悪く、身の危うさを案じられるほどのことであった。践祚の時にすぐ関白をやめて宇治にこもられた。弟の二条の教通の大臣が関白をつとめられたが、思いのほかその権勢もなかった。まして白河院のこの御代には院で政をお聞きになるので、摂関はただ職に備わっているだけになった。しかしこれからまた古い姿は一変したのであろうか。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下の事は施行せられしに、此御時より院宣・庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南の鳥羽と云所に離宮をたて、土木の大なる営ありき。昔はおり位の君は朱雀院にまします。これを後院と云ふ。又冷然院にもおはしけるに、彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿をもちて上皇御坐の本所とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年世をしらせ給しかば、院中の礼なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実は中納言公成の女也。壬子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野の行幸なんどもあり。又白河に法勝寺を立、九重の塔婆なども昔の御願の寺々にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。このゝち代ごとにうちつゞき御願寺を立られしを、造寺熾盛のそしり有き。造作のために諸国の重任なんど云ことおほくなりて、受領の功課もたゞしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費とこそ成侍にしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期はすごさせましましき。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱屣の後にぞ廃帝は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融の御時はやうやうしらせ給こともありしにや。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 第六十六代 一条院第六十六代、第三十六世、一条院。諱は懐仁、円融第一の子。御母皇后藤原詮子、摂政太政大臣兼家の女なり。花山の御門神器をすてゝ宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、内にまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくましまししかば、摂政の儀ふるきがごとし。丙戌年即位、丁亥に改元。そのゝち摂政病により嫡子内大臣道隆に譲て出家、猶准三宮の宣を蒙。此道隆始て大臣を辞て前官にて関白せられき。病ありて其子内大臣伊周しばらく相かはりて内覧せられしが、相続して関白たるべきよしを存ぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟にて道長、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれ一に摂政関白はし給ぞかし。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讃岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。
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