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神皇正統記 / 巻四 第六十九代 後朱雀院〜第七十代 後冷泉院

第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条同母の弟也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にまし〳〵けるとぞ。されど其比執柄権をほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。無念なることにや。長久の比内裏に火ありて、神鏡焼給。猶霊光を現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。天下を治給こと九年。三十七歳おまし〳〵き。 ○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥にも貞任・宗任など云し者、国をみだりければ、源頼義に仰て追討せらる。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おまし〳〵き。

書き下し

第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条同母の弟也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にましましけるとぞ。されど其比執柄権をほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。無念なることにや。長久の比内裏に火ありて、神鏡焼給。猶霊光を現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。天下を治給こと九年。三十七歳おましましき。 ○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥にも貞任・宗任など云し者、国をみだりければ、源頼義に仰て追討せらる。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おましましき。

現代語訳

第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条院と同じ母の弟である。丙子の年(一〇三六年)に即位し、丁丑の年に改元した。天皇は賢明であられたという。けれどもそのころ執柄(摂関)が権力をほしいままにされていたので、天皇の御政治の跡は聞こえない。残念なことであろう。長久のころ内裏に火災があって、神鏡が焼けられた。それでもなお霊妙な光を現されたので、その灰を集めて安置された。天下を治められたこと九年。三十七歳まで存命であった。 第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀院の第一皇子である。母は贈皇太后藤原嬉子で、摂政道長大臣の第三の娘である。乙酉の年(一〇四五年)に即位し、丙戌の年に改元した。この御代の末ごろ、世の中が穏やかでないと聞こえた。陸奥でも貞任・宗任などという者が国を乱したので、源頼義に命じて追討させた。十二年かかって鎮めたのである。この君には御子がおられなかったうえに、後朱雀院の遺詔によって後三条院が皇太子に立っておられたので、皇統の継承はかねてから定まっていたのである。天下を治められたこと二十三年。四十四歳まで存命であった。

解説

後朱雀天皇と後冷泉天皇の記事である。後朱雀は賢明と伝えられながら、摂関が権をほしいままにしたために「御政のあときこえず」、政治の跡が何も残らなかった。親房はそれを「無念」と書く。能力があっても、それを振るう場がなければ何も残らない。上に立つ者の力量と、実際に決める権限とが切り離されたとき、組織に何が起こるかをこの一言が言い当てている。神鏡が焼けてもその灰を集めて祀ったという記事も添えられている。後冷泉の代には陸奥で安倍貞任らが乱を起こし、源頼義が十二年かけて鎮めた。東国の武士の力が再び表に出てくる。そして後朱雀の遺詔によって後三条が皇太子と定められていた。藤原氏を母としない後三条の即位が摂関の時代に区切りをつけることは一般に知られている。時代はここから院政へと向かう。

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