神皇正統記 / 巻四 第六十八代 後一条院
第六十八代、後一条院。諱は敦成、一条第二の子。御母皇后藤原彰子、摂政道長の大臣の女也。丙辰年即位、丁巳に改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通の内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠・理髪父子ならびて勤仕せられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはる〴〵しらせ給ひしに、三条院かくれ給てのち、御子敦明の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申き。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦御時元方の民部卿のむすめ御息所、一のみこ広平親王をうみたてまつる。九条殿の女御まゐり給て、第二の皇子いでき玉ひし比より、悪霊になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄に世をのがれ、三条院の御目のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるも怨霊のゆゑなりとぞ。
書き下し
第六十八代、後一条院。諱は敦成、一条第二の子。御母皇后藤原彰子、摂政道長の大臣の女也。丙辰年即位、丁巳に改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通の内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠・理髪父子ならびて勤仕せられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはるがはるしらせ給ひしに、三条院かくれ給てのち、御子敦明の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申き。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦御時元方の民部卿のむすめ御息所、一のみこ広平親王をうみたてまつる。九条殿の女御まゐり給て、第二の皇子いでき玉ひし比より、悪霊になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄に世をのがれ、三条院の御目のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるも怨霊のゆゑなりとぞ。
現代語訳
第六十八代、後一条院。諱は敦成、一条院の第二皇子である。母は皇后藤原彰子で、摂政道長大臣の娘である。丙辰の年(一〇一六年)に即位し、丁巳の年に改元した。外祖父の道長大臣が摂政をされたが、のちに摂政を嫡子の内大臣頼通に譲り、自らはなお太政大臣として、天皇の御元服の日に、加冠と理髪を父子並んで勤められたのは珍しいことであった。冷泉・円融の両流がかわるがわる皇位をお治めになっていたが、三条院が亡くなられてのち、その御子の敦明親王が皇太子の位におられたのに、自ら辞退して院号を受けられ、小一条院と申し上げた。これより冷泉院の御流れは皇位から絶えた。冷泉院は兄であるから、その御末も正統と申すべきであったのに、昔、天暦(村上天皇)の御時、民部卿元方の娘の御息所が第一皇子の広平親王をお生み申し上げた。九条殿(師輔)の娘の女御が入内されて第二皇子(冷泉)が生まれられたころから、元方は悪霊になって、この皇子も物の怪に悩まされなさった。花山院がにわかに世を逃れ、三条院の御目が見えにくく、この東宮がこのように自ら退かれたのも、怨霊のためだという。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十八代 後一条院円融も一腹の御弟におはしませど、これまではなやまし申ささゝりけるもしかるべき継体の御運ましましけるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良親王立給き。天皇も御子なくて、彼東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おましましき。
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