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神皇正統記 / 巻四 第六十三代 冷泉院

第六十三代、冷泉院。諱は憲平、村上第二の子。御母中宮藤原安子、右大臣師輔の女也。丁卯年即位、戊辰に改元。この天皇邪気おはしければ、即位の時大極殿に出給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿にて其礼ありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又宇多より後、謚をたてまつらず。遺詔ありて国忌・山陵をゝかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或[は]出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。

書き下し

第六十三代、冷泉院。諱は憲平、村上第二の子。御母中宮藤原安子、右大臣師輔の女也。丁卯年即位、戊辰に改元。この天皇邪気おはしければ、即位の時大極殿に出給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿にて其礼ありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又宇多より後、謚をたてまつらず。遺詔ありて国忌・山陵をゝかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或は出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。

現代語訳

第六十三代、冷泉院。諱は憲平、村上天皇の第二皇子である。母は中宮藤原安子で、右大臣藤原師輔の娘である。丁卯の年(九六七年)に即位し、戊辰の年に改元した。この天皇は物の怪に悩まされておられたので、即位の時に大極殿にお出ましになることも容易ではなかったのであろうか、紫宸殿でその儀礼があった。二年ほどで国を譲られた。六十三歳まで存命であった。この帝から天皇の号を申し上げない。また宇多天皇より後は、諡(おくりな)をたてまつらない。遺詔があって国忌・山陵を置かれないことは、君父の賢明な道であるが、尊号をとどめられることは臣下や子の道義ではない。神武天皇以来の御号もみな後代に定めたものである。持統・元明天皇以来、位を退かれたり、あるいは出家された君にも諡をたてまつった。みな天皇とお呼び申してきたのである。中古の先賢の議論によるものではあるが、納得のいかないことである。

解説

冷泉天皇の記事と、それにつけた天皇の呼び名についての論である。冷泉は物の怪に悩まされ、即位の儀も大極殿で行えなかった。その系統は後に皇位の本流から外れるので、「第何世」は付かない。後半で親房は、この帝から「天皇」の号を奉らず「院」と呼ぶようになったこと、宇多以後は諡も奉らなくなったことを取り上げる。遺言で国忌や山陵を辞退するのは君父として賢い道だが、臣下や子の側が尊号をやめてしまうのは道義に反する、と筋を分けて論じる。謙遜は本人がするもので、周りが勝手に礼を省いてよい理由にはならない、という理屈である。親房は、先賢が決めたことでも「心をえぬ」と言うことをためらわない。呼び名や礼の形は中身の敬意を映すものであり、軽く扱えば敬意そのものが薄れるという考えがある。

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