神皇正統記 / 巻四 第六十四代 円融院〜第六十五代 花山院
第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳年即位、庚午に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌年の程にや御出家。永延の比、寛平の例をおふて、東寺にて潅頂せさせ給。御師はすなはち寛平の御孫弟子寛朝僧正なり。三十三歳おまし〳〵き。 ○第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子、摂政太政大臣伊尹の女也。甲申年即位、乙酉に改元。天下を治給こと二年ありて、俄に発心して花山寺にて出家し給。弘徽殿の女御かくれて悲歎ましけるをりをえて、粟田関白道兼のおとゞのいまだ蔵人弁ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おまし〳〵き。
新字:第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳年即位、庚午に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌年の程にや御出家。永延の比、寛平の例をおふて、東寺にて潅頂せさせ給。御師はすなはち寛平の御孫弟子寛朝僧正なり。三十三歳おまし〳〵き。 ○第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子、摂政太政大臣伊尹の女也。甲申年即位、乙酉に改元。天下を治給こと二年ありて、俄に発心して花山寺にて出家し給。弘徽殿の女御かくれて悲嘆ましけるをりをえて、粟田関白道兼のおとゞのいまだ蔵人弁ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おまし〳〵き。
書き下し
第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳年即位、庚午に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌年の程にや御出家。永延の比、寛平の例をおふて、東寺にて潅頂せさせ給。御師はすなはち寛平の御孫弟子寛朝僧正なり。三十三歳おましましき。 ○第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子、摂政太政大臣伊尹の女也。甲申年即位、乙酉に改元。天下を治給こと二年ありて、俄に発心して花山寺にて出家し給。弘徽殿の女御かくれて悲歎ましけるをりをえて、粟田関白道兼のおとゞのいまだ蔵人弁ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おましましき。
現代語訳
第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上天皇の第五皇子で、冷泉院と同じ母の弟である。己巳の年(九六九年)に即位し、庚午の年に改元した。天下を治められたこと十五年。禅譲して尊号を受けられたのは通例のとおりである。翌年ごろであろうか、御出家。永延のころ、寛平(宇多法皇)の例にならって、東寺で灌頂をお受けになった。御師はすなわち寛平法皇の孫弟子の寛朝僧正である。三十三歳まで存命であった。 第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉院の第一皇子である。母は皇后藤原懐子で、摂政太政大臣藤原伊尹の娘である。甲申の年(九八四年)に即位し、乙酉の年に改元した。天下を治められたこと二年で、にわかに発心して花山寺で出家された。弘徽殿の女御が亡くなって悲嘆しておられた折をとらえて、粟田関白道兼の大臣が、まだ蔵人弁と申したころであろうか、そそのかし申したという。山々を巡って修行されていたが、後には都に帰ってお住まいになった。この君も物の怪に悩まされておられたという。四十一歳まで存命であった。
解説
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