神皇正統記 / 巻四 第六十二代 村上天皇
此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房姓を給て人臣に列せられし、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女祇子の女王は宇治関白の室なり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申はべれ。
書き下し
此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房姓を給て人臣に列せられし、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女祇子の女王は宇治関白の室なり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申はべれ。
現代語訳
この親王(具平親王)こそ、まことに才も高く徳もおありだったのであろう。その子の師房は姓を賜って臣下に列せられたが、才芸は古人に恥じず、名望は世に聞こえた。十七歳で納言に任ぜられ、数十年の間朝廷の故実に習熟し、大臣・大将に上って、懸車の齢(官を退く七十歳)までお仕えになった。親王の娘の祇子女王は宇治関白(頼通)の妻である。そこでこの大臣を関白の子とされて、藤原氏の子と変わらず、春日社にも参ってお仕えになったという。またやがて御堂(道長)の息女と結婚されたので、子孫もみなその外孫である。このために御堂・宇治を遠い祖先のように思っている。それ以来、和漢の学問を主とし、国に報いる忠節を第一とする誠実さがあったからであろうか、この一流だけが絶えずに十余代に及んでいる。その中でも、行いが疑わしく、節操がおろそかな者は、自然に衰えて跡がなくなったものもある。今後といえども、慎んで考えられるべきことである。おおよそ天皇の御事を記し申し上げる中で、藤原氏の起こりはところどころに申した。源氏の流れも久しくなった上に、正しい道を踏むべき一端を志して記すのである。君も村上天皇の御流れ一筋で十七代におなりになった。臣もこの御末の源氏が相伝わっているのだから、ひとえにこの君の徳がすぐれておられたために、その余慶があるのかと仰ぎ申し上げるのである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほとほと納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。
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