神皇正統記 / 巻四 第五十九代 宇多天皇
およそ弘法の流に広沢・小野の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正。寛朝広沢にすまれしかば、かの流と云ふ。そのゝち代々の御室相伝へてたゞ人はあひまじはらず。小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆につらなりて歎徳と云ことをつとめられたりき。延喜の護持僧にて、ことに崇重給き。其弟子観賢僧正もあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中の法務を東寺の一阿闍梨につけられしもこの時より始る。此僧正は高野にまうでゝ、大師入定の窟を開て御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。其弟子淳祐相伴はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に許可ばかりにて授職をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海僧正又知法の人なりき。
新字:およそ弘法の流に広沢・小野の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正。寛朝広沢にすまれしかば、かの流と云ふ。そのゝち代々の御室相伝へてたゞ人はあひまじはらず。小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆につらなりて嘆徳と云ことをつとめられたりき。延喜の護持僧にて、ことに崇重給き。其弟子観賢僧正もあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中の法務を東寺の一阿闍梨につけられしもこの時より始る。此僧正は高野にまうでゝ、大師入定の窟を開て御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。其弟子淳祐相伴はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に許可ばかりにて授職をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海僧正又知法の人なりき。
書き下し
およそ弘法の流に広沢・小野の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正。寛朝広沢にすまれしかば、かの流と云ふ。そのゝち代々の御室相伝へてたゞ人はあひまじはらず。小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆につらなりて歎徳と云ことをつとめられたりき。延喜の護持僧にて、ことに崇重給き。其弟子観賢僧正もあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中の法務を東寺の一阿闍梨につけられしもこの時より始る。此僧正は高野にまうでゝ、大師入定の窟を開て御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。其弟子淳祐相伴はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に許可ばかりにて授職をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海僧正又知法の人なりき。
現代語訳
およそ弘法大師の流れには広沢・小野の二つがある。広沢は、法皇(宇多)の御弟子の寛空僧正、寛空の弟子の寛朝僧正と伝わる。寛朝が広沢に住まれたので、かの流れという。その後は代々の御室(仁和寺の門跡)が相伝えて、臣下の者は交わらない。小野の流れは、益信の相弟子に聖宝僧正という、法に通じて並ぶ者のない人がいた。大師の嫡流と称することがあるのだろうか。けれども受戒の年次が益信に劣っておられたからであろうか、法皇の御灌頂の時は色衆(法会に列する僧たち)に連なって、歎徳(師の徳をたたえる役)ということを務められた。延喜(醍醐天皇)の護持僧として、ことに崇め重んじられた。その弟子の観賢僧正も続いて護持申し上げ、同じく崇め重んじられた。僧綱の法務を東寺の一の阿闍梨に任されたのもこの時から始まる。この僧正は高野山に参って、大師入定の窟を開いて御髪を剃り、法服を着せ替え申し上げた人である。その弟子の淳祐がついて行ったが、ついに大師の御姿を見申し上げることができなかった。師の僧正がその手をとって御身に触れさせたという。淳祐は罪障の深さを嘆いて卑下の心があったので、弟子の元杲僧都には許可(こか)だけを与えて、伝法の職位を授けることは許さなかった。元杲は勅命によって法皇の御弟子寛空に会って、授職灌頂を遂げた。その元杲の弟子の仁海僧正もまた法に通じた人であった。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻四 第五十九代 宇多天皇小野と云所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことは其例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しも此御時也。又譲国の時さまざまをしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇宝亀五年甲寅六月十五日誕生。この日唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵入滅す。仍かの後身と申也。かつは恵果和尚の告にも「我と汝と久契約あり。誓て密蔵を弘。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は五筆の芸をほどこし、さまざまの神異ありしかば、唐の主、順宗皇帝ことに仰信じ給き。彼恵果和尚六人の附法あり。剣南の惟上・河北の義円、新羅の恵日・訶陵の弁弘、青龍の義明・日本の空海。義明は唐朝におきて潅頂の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶たり。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子順暁にあひて真言を伝へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義操・法潤ときこえしが弟子法全にあひて伝へらる。凡本朝流布の宗、今は七宗也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧専鎮護国家のためと心ざゝれけるにや。
-
『神皇正統記』巻四 第五十九代 宇多天皇第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをゝきて譲をうけ給。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政大臣基経又関白せらる。此関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきとぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又智証大師の弟子増命僧正にも比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺に伝侍は是なり。
-
『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇比叡山には顕密ならびて紹隆す。殊に天子本命の道場をたてゝ御願を祈る地なり。又根本中堂を止観院と云ふ。法華の経文につき、天台の宗義により、かたがた鎮護の深義ありとぞ。東寺は桓武遷都の初、皇城の鎮のためにこれをたてらる。弘仁の御時、弘法に給てながく真言の寺とす。諸宗の雑住をゆるさゞる地也。此宗を神通乗と云ふ。如来果上の法門にして諸教にこえたる極秘密とおもへり。就中我国は神代よりの縁起、此宗の所説に符合せり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、則日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことわりにや。大唐の内道場に准じて宮中に真言院をたつ。大師奏聞して毎年正月この所にて御修法あり。国土安穏の祈祷、稼穡豊饒の秘法也。又十八日の観音供、晦日の御念誦等も宗によりて深意あるべし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜の御宇に綱所の印鎰を東寺の一阿闍梨にあづけらる。仍法務のことを知行して諸宗の一座たり。
-
『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。
-
『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇心みに此鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風いよいよさかりになりて天下に流布せり。唐国みだれしより経教おほくうせぬ。道邃より四代にあたれる義寂と云人まで、たゞ観心を伝へて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国の忠懿王此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典をもとめしむ。ことごとくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代の中、後唐の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本となるなり。凡伝教彼宗の秘密を伝へられたることもことごとく一宗の論疏をうつし、国にかへれることも異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る