神皇正統記 / 巻二 第十七代 仁徳天皇
第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫の命、五百城入彦皇子女也。大鷦鷯の尊と申。応神の御時、菟道稚皇子と申は最末の御子にてまし〳〵しをうつくしみ給て、太子に立むとおぼしめしけり。兄の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神悦まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐になん定め給ける。応神かくれまし〳〵しかば、御兄達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を一にして彼を誅せられき。爰太子天位を尊に譲給。尊堅くいなみ給、三年になるまで互に譲て位を空す。太子は山城の宇治にます。尊は摂津の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁となりしかば、太子みづから失給ぬ。尊おどろき歎給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉の年即位。摂津国難波高津の宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。
新字:第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫の命、五百城入彦皇子女也。大鷦鷯の尊と申。応神の御時、菟道稚皇子と申は最末の御子にてまし〳〵しをうつくしみ給て、太子に立むとおぼしめしけり。兄の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神悦まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐になん定め給ける。応神かくれまし〳〵しかば、御兄達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を一にして彼を誅せられき。爰太子天位を尊に譲給。尊堅くいなみ給、三年になるまで互に譲て位を空す。太子は山城の宇治にます。尊は摂津の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁となりしかば、太子みづから失給ぬ。尊おどろき嘆給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉の年即位。摂津国難波高津の宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。
書き下し
第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫の命、五百城入彦皇子女也。大鷦鷯の尊と申。応神の御時、菟道稚皇子と申は最末の御子にてましまししをうつくしみ給て、太子に立むとおぼしめしけり。兄の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神悦まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐になん定め給ける。応神かくれましまししかば、御兄達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を一にして彼を誅せられき。爰太子天位を尊に譲給。尊堅くいなみ給、三年になるまで互に譲て位を空す。太子は山城の宇治にます。尊は摂津の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁となりしかば、太子みづから失給ぬ。尊おどろき歎給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉の年即位。摂津国難波高津の宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。
現代語訳
第十七代、仁徳天皇は応神天皇の第一の御子である。母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)の娘である。大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と申し上げる。応神天皇の御代、天皇は菟道稚皇子(うじのわきいらつこ)という末の御子をいつくしまれて、太子に立てようとお考えになった。兄の御子たちは承知なさらなかったが、この天皇ひとりが承知なさったので、応神天皇はお喜びになり、菟道稚皇子を太子とし、この尊を補佐役にお定めになった。応神天皇が崩御されると、兄の御子たちが太子を亡き者にしようとなさったのを、この尊が察知し、太子と心を一つにしてその者を誅された。そこで太子は皇位を尊にお譲りになった。尊は固く辞退され、三年になるまで互いに譲り合って、皇位を空けたままにした。太子は山城の宇治におられ、尊は摂津の難波におられた。国々から納める貢ぎ物も、どちらも受け取らずに行き場を失い、民の嘆きとなったので、太子はみずから命を絶たれた。尊の驚き嘆かれることは限りがなかった。しかし逃れられる道ではなかったので、癸酉の年に即位された。摂津国難波の高津宮におられる。皇位を継がれてから、国を鎮め民をいつくしまれたことは、ほかに例もまれなほどの御事であったろうか。
解説
関連する章句
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