神皇正統記 / 巻四 第五十二代 嵯峨天皇
梁の代に天竺の達磨大師来てひろめられしに、武帝に機かなはず。江を渡て北朝にいたる。嵩山と云所にとゞまり、面壁して年をおくられける。後に恵可これをつぐ。恵可より下、四世に弘忍禅師ときこえし、嗣法南北に相分る。北宗の流をば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。安然和尚教時諍論と云書に教理の浅深を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人なくてたえにき。近代となりて南宗のながれおほくつたはる。異朝には南宗の下に五家あり。その中臨済宗の下より又二流となる。これを五家七宗と云ふ。本朝には栄西僧正、黄龍の流をくみて伝来の後、聖一上人、石霜の下つかた虎丘のながれ無準にうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて伝へしかば、諸家の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の顕・密・権・実等の不同には相似べからず。いづれも直指人心、見性成仏の門をばいでざる也。
新字:梁の代に天竺の達磨大師来てひろめられしに、武帝に機かなはず。江を渡て北朝にいたる。嵩山と云所にとゞまり、面壁して年をおくられける。後に恵可これをつぐ。恵可より下、四世に弘忍禅師ときこえし、嗣法南北に相分る。北宗の流をば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。安然和尚教時諍論と云書に教理の浅深を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人なくてたえにき。近代となりて南宗のながれおほくつたはる。異朝には南宗の下に五家あり。その中臨済宗の下より又二流となる。これを五家七宗と云ふ。本朝には栄西僧正、黄竜の流をくみて伝来の後、聖一上人、石霜の下つかた虎丘のながれ無準にうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて伝へしかば、諸家の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の顕・密・権・実等の不同には相似べからず。いづれも直指人心、見性成仏の門をばいでざる也。
書き下し
梁の代に天竺の達磨大師来てひろめられしに、武帝に機かなはず。江を渡て北朝にいたる。嵩山と云所にとゞまり、面壁して年をおくられける。後に恵可これをつぐ。恵可より下、四世に弘忍禅師ときこえし、嗣法南北に相分る。北宗の流をば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。安然和尚教時諍論と云書に教理の浅深を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人なくてたえにき。近代となりて南宗のながれおほくつたはる。異朝には南宗の下に五家あり。その中臨済宗の下より又二流となる。これを五家七宗と云ふ。本朝には栄西僧正、黄龍の流をくみて伝来の後、聖一上人、石霜の下つかた虎丘のながれ無準にうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて伝へしかば、諸家の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の顕・密・権・実等の不同には相似べからず。いづれも直指人心、見性成仏の門をばいでざる也。
現代語訳
梁の時代に天竺の達磨大師が来て広められたが、武帝とは機が合わなかった。長江を渡って北朝に至り、嵩山という所にとどまって、壁に向かって座禅して年を送られた。後に恵可(慧可)がこれを継いだ。恵可から下って四代目に弘忍禅師という方がいて、その法の継承が南北に分かれた。北宗の流れは伝教・慈覚が伝えて帰国された。安然和尚は『教時諍論』という書で教理の浅深を判定するのに、真言・仏心・天台と並べている。けれども受け伝える人がなくて絶えてしまった。近い時代になって南宗の流れが多く伝わった。中国では南宗の下に五家がある。その中の臨済宗の下からまた二つの流れとなった。これを五家七宗という。わが国では、栄西僧正が黄龍派の流れをくんで伝えてのち、聖一上人(円爾)が石霜の下の系統である虎丘の流れを無準(師範)から受けた。かの宗が広まったのはこの両師からのことである。引き続き中国の僧も数多く来朝し、この国からも渡って伝えたので、諸家の禅が多く広まった。五家七宗とはいっても、先に述べた顕・密・権・実などの違いとは比べられないはずである。いずれも「直指人心、見性成仏(ただちに人の心を指し示し、本性を見て仏となる)」の門を出ないのである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇日本の定恵和尚彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝の後世をはやくす。今の法相は玄昉僧正と云人入唐して泗州の智周大師にあひてこれを伝へて流布しけるとぞ。春日の神もことさら此宗を擁護し給なるべし。此三宗に天台をくはへて四家の大乗と云ふ。倶舎・成実なむど云は小乗也。道慈律師おなじく伝て流布せられけれども、依学の宗にて、別に一宗を立ことなし。我国大乗純熟の地なればにや、小乗を習人なき也。又律宗は大小に通ずる也。鑑真和尚来朝してひろめられしより東大寺および下野の薬師寺・筑紫の観音寺に戒壇をたてゝ、此戒をうけぬものは僧籍につらならぬ事になりにき。中古より以来、其名ばかりにて戒体をまぼることたえにけるを、南都の思円上人等章疏を見あきらめて戒師となる。北京には我禅上人入宋して彼土の律法をうけ伝てこれをひろむ。南北の律再興して彼宗に入輩は威儀を具することふるきがごとし。禅宗は仏心宗とも云ふ。仏の教外別伝の宗なりとぞ。
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇心みに此鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風いよいよさかりになりて天下に流布せり。唐国みだれしより経教おほくうせぬ。道邃より四代にあたれる義寂と云人まで、たゞ観心を伝へて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国の忠懿王此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典をもとめしむ。ことごとくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代の中、後唐の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本となるなり。凡伝教彼宗の秘密を伝へられたることもことごとく一宗の論疏をうつし、国にかへれることも異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。
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『茶の本』第三章 道教と禅道・禅那すなわち静慮さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語の禅那から出た名であって、その意味は静慮である。精進静慮することによって、自性了解の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅密の一つであって、釈迦牟尼はその後年の教えにおいて特にこの方法を力説し、六則をその高弟迦葉に伝えたと禅宗徒は確言している。かれらの言い伝えによれば、禅の始祖迦葉はその奥義を阿難陀に伝え、阿難陀から順次に祖師相伝えて、ついに第二十八祖菩提達磨に至った。菩提達磨は六世紀の前半に北シナに渡って、シナ禅宗の第一祖となった。これらの祖師やその教理の歴史については不確実なところが多い。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又此説ヲナス。中古禅宗ノ達磨ト云人モ。実事ナラス。付法蔵伝ニモ師子尊者ニ至テ法断絶スト有ル。後人婆舎斯多尊者已下ヲ加テ。達磨ニ及ス。梁武ノ問答モ。魏ノ宋雲カ流沙ニ逢フモ。皆年代相違アリ。歴史ニ通セサル者ノ所作ナリ。慧可僧璨ノ類カ。列子荘子ニ附会シテ思ヒ寄シコトヲ。世ニ信ヲ取ン為ニ。一箇ノ俊邁活饑底ノ人ヲ仮設シコトナリ。此ヨリ降テ諸宗ノ仏法ハ。皆夢ニ託シテ説キ出ス。顕密ノ祖師多ハ夢中ニ夢ヲ説ク人ト。
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『茶の本』第三章 道教と禅道・南方禅を説いた慧能禅を哲学的に見れば、昔の禅学は一方において那伽閼剌樹那のインド否定論に似ており、また他方においては商羯羅阿闍梨の組み立てた無明観に似たところがあるように思われる。今日われらの知っているとおりの禅の教理は、南方禅の開山、シナの第六祖慧能が始めて説いたに違いない。慧能の後、ほどなく馬祖大師これを継いで、禅を中国人の生活における一活動勢力に作りあげた。馬祖の弟子百丈は禅宗叢林を開創し、禅林清規を制定した。馬祖の時代以後の禅宗の問答を見ると、揚子江岸精神の影響をこうむって、昔のインド理想主義とはきわ立って違ったシナ固有の考え方を増していることがわかる。
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇宝亀五年甲寅六月十五日誕生。この日唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵入滅す。仍かの後身と申也。かつは恵果和尚の告にも「我と汝と久契約あり。誓て密蔵を弘。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は五筆の芸をほどこし、さまざまの神異ありしかば、唐の主、順宗皇帝ことに仰信じ給き。彼恵果和尚六人の附法あり。剣南の惟上・河北の義円、新羅の恵日・訶陵の弁弘、青龍の義明・日本の空海。義明は唐朝におきて潅頂の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶たり。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子順暁にあひて真言を伝へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義操・法潤ときこえしが弟子法全にあひて伝へらる。凡本朝流布の宗、今は七宗也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧専鎮護国家のためと心ざゝれけるにや。
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