神皇正統記 / 巻三 第四十八代 称徳天皇
されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝[の]魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安祿山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おまし〳〵き。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。
新字:されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝[の]魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安禄山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おまし〳〵き。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。
書き下し
されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝の魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安禄山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おましましき。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。
現代語訳
しかし、中国でも南朝の宋の世に恵琳という人が政事に加わったのを黒衣の宰相といった。梁の世に恵超という僧が学士の官になった。北朝の魏の明元帝の代に法果という僧が安城公の爵位を賜った。唐の世になってからは多く聞こえた。粛宗の朝廷に道平という人がいて、帝と心を一つにして安禄山の乱を平らげたので、金吾将軍に任じられた。代宗の時、天竺の不空三蔵を尊ばれるあまりであろうか、特進試鴻臚卿を授けられた。のちに開府儀同三司・粛国公とした。亡くなられると司空の官を贈られた。則天の朝廷からこの女帝の御代まで六十年ほどであろうか。両国のことはよく似ているという。天下を治められたのは五年で、五十七歳であられた。天武・聖武は国に大きな功績があり、仏法も広められたが、皇統の後継がおられず、この女帝で絶えてしまった。女帝が崩御されると、道鏡を下野の講師にして流し下された。そもそもこの道鏡は法王の位を授けられていたが、なお満足せずに皇位に即こうという志があった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云法師又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給けるにや。
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