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神皇正統記 / 巻三 第四十九代 光仁天皇

第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、天智天皇の御孫也。御母贈皇太后紀旅子、贈太政大臣旅人の女也。白壁の王と申き。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給き。称徳かくれましましゝかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おの〳〵異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。そのかみ逆臣を誅し、国家をも安し給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、すなはち受禅。ことし庚戌年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おまし〳〵き。

書き下し

第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、天智天皇の御孫也。御母贈皇太后紀旅子、贈太政大臣旅人の女也。白壁の王と申き。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給き。称徳かくれましましゝかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おのおの異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。そのかみ逆臣を誅し、国家をも安し給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、すなはち受禅。ことし庚戌年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おましましき。

現代語訳

第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子(しきのみこ)の子で、天智天皇の孫である。母は贈皇太后の紀旅子で、贈太政大臣旅人の娘である。白壁王と申し上げた。天平年中、二十九歳で従四位下に叙され、順に昇進なさって、正三位・勲二等・大納言に至られた。称徳天皇が崩御されたので、大臣以下の者が皇族の中から選び申し上げたところ、それぞれ異論があったが、参議百川という人がこの天皇に心を寄せ申し上げて、計略をめぐらして定め申し上げたのであった。天武天皇が世を治められてから、(その系統に)異を唱え申す人はなかった。しかし天智天皇は兄として先に皇位を受け継がれた。その昔、逆臣を誅し、国家をも安らかにされた。この君がこのように皇統を継ぐにふさわしくなられたのは、やはり正しい筋に返るべきわけであったのだろう。まず皇太子に立ち、すぐに位を譲り受けられた。この年は庚戌の年である。十月に即位し、十一月に改元された。平城宮におられた。天下を治められたのは十二年で、七十三歳であられた。

解説

称徳で天武の系統が絶え、天智の孫の光仁が迎えられる。親房はこの天皇を第二十七世とし、正統の筋に戻したと明言する。天武以来、その系統に異を唱える者はなかったが、天智は兄として先に位を受け、逆臣蘇我氏を討って国を安んじた人である。その孫が皇統を継ぐのは「猶正にかへるべきいはれ」だという。この書の冒頭近くで親房は、傍系から伝わることがあっても「猶正にかへる道」があって皇統は保たれてきたと述べていた。光仁の即位はその典型として描かれている。一方で、群臣の間には異議があり、藤原百川がはかりごとをめぐらして決めたとも書く。正しい筋に返ることが、神意や自然の成り行きだけでなく、一人の臣の策略によって実現した事実を隠していない。本筋に戻す決断には、それを実際に動かす人の働きが要る。

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