神皇正統記 / 巻三 第四十八代 称徳天皇
女帝さすが思わづらひ給けるにや、和気清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。大菩薩さま〴〵託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのまゝに奏聞す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇出来てそのきずをいやしけり。光仁位につき給しかば、即めしかへさる。神威をたうとび申て、河内国に寺を立て、神願寺と云ふ。後に高雄の山にうつし立。今の神護寺これなり。件のころまでは神威もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。
書き下し
女帝さすが思わづらひ給けるにや、和気清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。大菩薩さまざま託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのまゝに奏聞す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇出来てそのきずをいやしけり。光仁位につき給しかば、即めしかへさる。神威をたうとび申て、河内国に寺を立て、神願寺と云ふ。後に高雄の山にうつし立。今の神護寺これなり。件のころまでは神威もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。
現代語訳
女帝もさすがに思い悩まれたのであろうか、和気清丸(和気清麻呂)という人を勅使として、宇佐の八幡宮にお伺いを立てられた。大菩薩はさまざまに託宣があって、決してお許しにならなかった。清丸は帰って来てありのままに奏上した。道鏡は怒りを起こして、清丸の膝の後ろの筋を断ち切り、土佐国に流した。清丸が憂え悲しんで、大菩薩を恨み嘆き申し上げたところ、小さな蛇が出てきてその傷を癒やした。光仁天皇が位に即かれると、すぐに呼び戻された。神威を尊び申し上げて、河内国に寺を建て、神願寺といった。のちに高雄の山に移し建てた。今の神護寺がこれである。そのころまでは神威もこのように著しかった。こうして道鏡はついに望みを遂げなかった。女帝もまたほどなく崩御された。宗廟と国家を安らかにしたのは八幡の御はからいであった上に、皇統を定め申し上げたのは藤原百川朝臣の功績であるという。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻四 第五十六代 清和天皇太政大臣このことをきゝ驚遽られけるあまりに、烏帽子直衣をきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。此大臣の忠節まことに無止ことになん。天皇仏法に帰給て、つねに脱屣の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を授奉らる。素真と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔隋煬帝の晋王と云し時、天台の智者に受戒して惣持と云名をつかれたりし、よからぬ君の例なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水にうつり給。天皇聞食て勅使をつかはし、その所を点じ、もろもろのたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬せらる。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波の水尾と云所にうつらせ給て、練行しましゝが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝の魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安禄山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おましましき。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。
-
『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇異朝にも人の心まちまちなれば、異学の輩の云出せる事歟。後漢書よりぞ此国のことをばあらあらしるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕、真根子と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでゝ、とがなきよしを明められにき。上古神霊の主猶かゝるあやまちましまししかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おましましき。欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形の池と云所にあらはれ給、「われは人皇十六代誉田の八幡丸なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号也。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣ありき。仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。
-
『神皇正統記』巻三 道鏡この道鏡はじめは大臣に准じて大臣禅師と云しを太政大臣になし給。それによりてつぎつぎ納言・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣吉備の真備の公、左中弁藤原の百川などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより始て、僧正・僧統など云事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云法師又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給けるにや。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇中宗・睿宗もわが生給しかども、すてゝ諸王とし、みづからの族武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る