神皇正統記 / 巻三 道鏡
この道鏡はじめは大臣に准じて大臣禅師と云しを太政大臣になし給。それによりてつぎ〳〵納言・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣吉備の真備の公、左中弁藤原の百川などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより始て、僧正・僧統など云事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。
書き下し
この道鏡はじめは大臣に准じて大臣禅師と云しを太政大臣になし給。それによりてつぎつぎ納言・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣吉備の真備の公、左中弁藤原の百川などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより始て、僧正・僧統など云事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。
現代語訳
この道鏡は、はじめは大臣に准ずる扱いで「大臣禅師」と呼ばれていたのを、太政大臣になさった。それによって次々に、納言や参議にも僧をまじえて任命されるようになった。道鏡が世を思いのままにしたので、争う人がいなかったのだろうか。大臣には吉備真備公、左中弁には藤原百川などがいた。しかし力が及ばなかったのだろう。僧を官職に任じることは中国に始まり、僧正・僧統などということがあったが、それすら出家の本意ではあるまい。まして俗世の官に任じることなど、あってよいことではない。
解説
称徳天皇と道鏡の一件に対する評である。親房が問題にしているのは、道鏡個人の野心よりも、境界が溶けていく過程のほうだ。大臣に准ずる呼称が与えられ、それが太政大臣になり、すると「つぎ〳〵納言・参議にも法師をまじへなされにき」——後に続く者が出て、例外が制度になっていく。最初の一歩は小さな待遇の変更だった。そして「あらそふ人のなかりしにや」と続く。吉備真備も藤原百川もその場にいたのに、止まらなかった。有能な人が揃っていても、最初の例外を通してしまえば後は流れる。親房はここで僧が俗官に就くこと自体を「あるべからぬ事」と断じるが、その断じ方の背後にあるのは、役割の線をどこで引くかという一般的な問題である。線を一度またいだ前例は、次からは根拠として使われる。
この章句が説くこと
道鏡称徳天皇前例役割の線
関連する章句
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝の魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安禄山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おましましき。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇中宗・睿宗もわが生給しかども、すてゝ諸王とし、みづからの族武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云法師又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給けるにや。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇女帝さすが思わづらひ給けるにや、和気清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。大菩薩さまざま託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのまゝに奏聞す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇出来てそのきずをいやしけり。光仁位につき給しかば、即めしかへさる。神威をたうとび申て、河内国に寺を立て、神願寺と云ふ。後に高雄の山にうつし立。今の神護寺これなり。件のころまでは神威もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。
-
『神皇正統記』巻四 第五十六代 清和天皇氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男と云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき。信の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。
-
『玉勝間』四の巻 法親王のはじめ続世継に、覚行法親王の御事を申していわく、わらわにても親王の御名え給わねども、親王の宣旨こうぶり給えり。後二条のおとど、出家の後は、例無きよし侍りけれども、白川院、内親王と云う事も有れば、法親王もなどか無からんとて、始めて法師の後、親王と聞こえ給いしなり。かくて後ぞ、打ち続きいづくにも、出家ののちの親王きこえ給うめる、と有り。法内親王の御例は、今の世までも、いまだおわしまさず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る