神皇正統記 / 巻三 第四十八代 称徳天皇
中宗・睿宗もわが生給しかども、すてゝ諸王とし、みづからの族武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。
書き下し
中宗・睿宗もわが生給しかども、すてゝ諸王とし、みづからの族武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。
現代語訳
中宗・睿宗も自らお産みになった子であったが、捨てて諸王とし、自分の一族である武氏の者たちによって国を伝えさせようとまでなさった。その時にこそ法師も宦官も多く寵愛されて、世に非難される例が多くあったのである。
解説
則天武后が実の子の中宗・睿宗を退けて諸王とし、自分の一族である武氏に国を継がせようとしたことを記し、その時代に僧や宦官が寵愛されて世の非難を浴びたと結ぶ。短い段だが、前段の称徳天皇と道鏡の話と重ねるために置かれていることは明らかである。親房にとって、皇統を血筋の外に移そうとすることはもっとも重い逸脱であり、それが僧侶の寵愛と結びついて起こるという点で、唐と日本の二つの例は同じ型をしている。親房は仏法を深く敬う人だが、僧が政に入り込み、君主の寵愛によって権力を得ることには厳しい。信仰を尊ぶことと、信仰の担い手に政を委ねることは別だという線を、はっきり引いているのである。専門の分野で尊敬されている人に、その分野の外の権限まで与えてしまうことの危うさは、今の組織にもそのまま当てはまる。
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