神皇正統記 / 巻三 第四十二代 文武天皇
第四十二代、文武天皇は草壁の太子第二の子、天武の嫡孫也。御母阿閇の皇女、天智御女也。丁酉年即位。猶藤原の宮にまします。此御時唐国の礼をうつして、宮室のつくり、文武官の衣服の色までもさだめられき。又即位五年辛丑より始て年号あり。大宝と云ふ。これよりさきに、孝徳の御代に大化・白雉、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀・朱鳥なんど云ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始とする也。又皇子を親王と云こと此御時にはじまる。又藤原の内大臣鎌足の子、不比等の大臣、執政の臣にて律令なんどをもえらびさだめられき。藤原の氏、此大臣よりいよ〳〵さかりになれり。四人の子おはしき。是を四門と云ふ。一門は武智麿の大臣の流、南家と云ふ。二門は参議中衛大将房前の流、北家と云ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門は式部卿宇合の流、式家と云ふ。四門は左京大夫麿の流、京家といひしがはやくたえにけり。
書き下し
第四十二代、文武天皇は草壁の太子第二の子、天武の嫡孫也。御母阿閇の皇女、天智御女也。丁酉年即位。猶藤原の宮にまします。此御時唐国の礼をうつして、宮室のつくり、文武官の衣服の色までもさだめられき。又即位五年辛丑より始て年号あり。大宝と云ふ。これよりさきに、孝徳の御代に大化・白雉、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀・朱鳥なんど云ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始とする也。又皇子を親王と云こと此御時にはじまる。又藤原の内大臣鎌足の子、不比等の大臣、執政の臣にて律令なんどをもえらびさだめられき。藤原の氏、此大臣よりいよいよさかりになれり。四人の子おはしき。是を四門と云ふ。一門は武智麿の大臣の流、南家と云ふ。二門は参議中衛大将房前の流、北家と云ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門は式部卿宇合の流、式家と云ふ。四門は左京大夫麿の流、京家といひしがはやくたえにけり。
現代語訳
第四十二代、文武天皇は草壁太子の第二の子で、天武天皇の嫡孫である。母は阿閇皇女(あへのひめみこ)で、天智天皇の娘である。丁酉の年に即位された。やはり藤原宮におられた。この御時、唐の国の礼にならって、宮殿の造りから文官・武官の衣服の色までも定められた。また即位五年の辛丑から始めて年号がある。大宝という。これより先に、孝徳天皇の御代に大化・白雉、天智天皇の御時に白鳳、天武天皇の御代に朱雀・朱鳥などという年号があったが、大宝より後に絶えないことになったのである。それで大宝を年号の始めとするのである。また皇子を親王というのもこの御時に始まる。また藤原内大臣鎌足の子の不比等大臣が執政の臣として、律令などを選び定められた。藤原氏はこの大臣からいよいよ盛んになった。四人の子がおられた。これを四門という。一門は武智麻呂大臣の流れで、南家という。二門は参議中衛大将房前の流れで、北家という。今の執政の大臣や、しかるべき藤原氏の人々はみなこの末であろう。三門は式部卿宇合の流れで、式家という。四門は左京大夫麻呂の流れで、京家といったが、早く絶えてしまった。
解説
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