導師導古典を学びたいすべての人に

神皇正統記 / 巻三 第四十代 天武天皇

第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にまし〳〵き。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を遙拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しな〴〵によりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おまし〳〵き。

新字:第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にまし〳〵き。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を遥拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しな〴〵によりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おまし〳〵き。

書き下し

第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にましましき。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を遙拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しなじなによりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おましましき。

現代語訳

第四十代、天武天皇は天智天皇と同じ母の弟である。皇太子に立って大和におられた。天智天皇は近江におられた。(天智天皇が)御病気になられたとき、太子をお呼びになったのを、近江の朝廷の臣の中に内々に知らせ申し上げる人があったので、帝の御意向がどうであったのか、太子の位を自ら退いて、天智天皇の御子の太政大臣大友皇子に譲り、吉野宮に入られた。天智天皇が崩御された後、大友皇子はなお危ぶまれたのであろうか、軍勢を召して吉野を襲おうと計られた。天皇はひそかに吉野を出て伊勢に越え、飯高郡に至って太神宮を遥拝し、美濃へ向かって東国の軍勢を召された。皇子の高市皇子が参上されたのを大将軍として美濃の不破を守らせ、天皇は尾張国に越えられた。国々が従い申し上げたので、不破の関の戦いに勝った。すぐに勢多(瀬田)に臨んで合戦があった。大友皇子の軍は敗れ、皇子は殺された。大臣以下の者は、あるいは誅され、あるいは遠くへ流された。戦いに従い申し上げた者たちには、身分に応じてその恩賞を与えられた。壬申の年に即位された。大和の飛鳥浄御原宮におられた。朝廷の法度を多く定められた。上下の者が漆塗りの頭巾をかぶることもこの御時から始まる。天下を治められたのは十五年で、七十三歳であられた。

解説

壬申の乱を記した段である。親房は、天武が病床の天智に呼ばれた際、近江朝廷の中に内情を知らせる者がいて、天智の真意を察して自ら太子の位を退き、吉野に入ったと書く。大友皇子の側が先に兵を集めて吉野を襲おうとしたので、天武は東国に出て兵を募り、不破と瀬田の戦いに勝った。親房は天武を、身を引いたのに追い詰められてやむなく立った側として描いている。伊勢の太神宮を遥拝したことを書き落とさないのも、神意がこちらにあったことを示すためである。ただし天武には「第何世」が付かない。天武の系統はやがて称徳で絶え、正統は天智の孫の光仁へ戻るからである。戦いに勝って位に即いた天皇を、代には数えても世には数えない。勝った者が必ずしも本筋ではないという見方が、系譜の中に静かに示されている。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る