神皇正統記 / 巻三 第三十八代 齊明天皇
高麗をせめしによりてすくひの兵を申うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ給。されど三韓つひに唐に属しゝかば、軍をかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と申は中の大兄の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給、此御時は摂政し給とみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おまし〳〵き。
書き下し
高麗をせめしによりてすくひの兵を申うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ給。されど三韓つひに唐に属しゝかば、軍をかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と申は中の大兄の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給、此御時は摂政し給とみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おましましき。
現代語訳
(唐が)高麗を攻めたことで、(三韓から)救援の兵を願い出てきたので、天皇と皇太子は筑紫まで向かわれた。しかし三韓はついに唐に属したので、軍を引き返された。その後も三韓はよしみを忘れるまではなかった。皇太子と申し上げるのは中大兄皇子のことである。孝徳天皇の御代から太子に立たれ、この御時には摂政をなさったと見える。天皇が天下を治められたのは七年で、六十八歳であられた。
解説
斉明天皇の代の朝鮮半島への出兵を、親房はごく短く記す。救援を求められて天皇と皇太子が筑紫まで出向いたが、三韓は結局唐に属したので軍を返した、とだけ書く。実際にはこの後、白村江の戦いで倭の軍勢は唐・新羅の連合軍に大敗するが、親房はその敗戦を記していない。何を書き何を書かないかというこの書の性格がここにも表れている。そのうえで、三韓はその後もよしみを忘れなかったと付け加え、関係が断たれたわけではないことを強調する。後半では中大兄皇子が孝徳の代から太子で、この代には摂政として政を執ったと記す。推古朝の聖徳太子と同じく、女帝のもとで皇太子が実務を担う形である。失敗の記録をどこまで残すかは、歴史を書く者にとっても、組織の記録を残す者にとっても、避けられない選択である。
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