神皇正統記 / 巻三 第三十八代 齊明天皇
第三十八代、齊明天皇は皇極の重祚也。重祚と云ことは本朝にはこれに始れり。異朝には殷大甲不明なりしかば、伊尹是を桐宮にしりぞけて三年政をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを悔て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晉世に桓玄と云し者、安帝の位をうばひて、八十日ありて、義兵の為にころされしかば、安帝位にかへり給。唐の世となりて、則天皇后世をみだられし時、我所生の子なりしかども、中宗をすてゝ廬陵王とす。おなじ御子予王をたてられしも又すてゝみづから位にゐ給。後に中宗位にかへりて唐の祚たえず。予王も又重祚あり。是を睿宗と云ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極の重祚を齊明と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣をおもくするゆゑ歟。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯年即位。このたびは大和の岡本にまします。後の岡本の宮と申。此御世はもろこしの唐高宗の時にあたれり。
新字:第三十八代、斉明天皇は皇極の重祚也。重祚と云ことは本朝にはこれに始れり。異朝には殷大甲不明なりしかば、伊尹是を桐宮にしりぞけて三年政をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを悔て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晋世に桓玄と云し者、安帝の位をうばひて、八十日ありて、義兵の為にころされしかば、安帝位にかへり給。唐の世となりて、則天皇后世をみだられし時、我所生の子なりしかども、中宗をすてゝ廬陵王とす。おなじ御子予王をたてられしも又すてゝみづから位にゐ給。後に中宗位にかへりて唐の祚たえず。予王も又重祚あり。是を睿宗と云ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極の重祚を斉明と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣をおもくするゆゑ歟。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯年即位。このたびは大和の岡本にまします。後の岡本の宮と申。此御世はもろこしの唐高宗の時にあたれり。
書き下し
第三十八代、斉明天皇は皇極の重祚也。重祚と云ことは本朝にはこれに始れり。異朝には殷大甲不明なりしかば、伊尹是を桐宮にしりぞけて三年政をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを悔て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晋世に桓玄と云し者、安帝の位をうばひて、八十日ありて、義兵の為にころされしかば、安帝位にかへり給。唐の世となりて、則天皇后世をみだられし時、我所生の子なりしかども、中宗をすてゝ廬陵王とす。おなじ御子予王をたてられしも又すてゝみづから位にゐ給。後に中宗位にかへりて唐の祚たえず。予王も又重祚あり。是を睿宗と云ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極の重祚を斉明と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣をおもくするゆゑ歟。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯年即位。このたびは大和の岡本にまします。後の岡本の宮と申。此御世はもろこしの唐高宗の時にあたれり。
現代語訳
第三十八代、斉明天皇は皇極天皇の重祚(再び位に即くこと)である。重祚ということは、我が国ではこれが始まりである。異国では、殷の太甲が道理に暗かったので、伊尹がこれを桐宮に退けて三年間政治を執った。しかし帝位を捨てさせるまでではなかったのであろうか。太甲が過ちを悔いて徳を修めたので、もとのように天子とした。晋の世に桓玄という者が安帝の位を奪ったが、八十日たって義兵のために殺されたので、安帝は位に返られた。唐の世になって、則天皇后が世を乱されたとき、自分の産んだ子であったのに、中宗を廃して廬陵王とした。同じく御子の予王を立てられたが、これもまた廃して自ら位に即かれた。のちに中宗が位に返って唐の皇統は絶えなかった。予王もまた重祚した。これを睿宗という。これこそまさしい重祚であるが、二代には立てていない。中宗・睿宗と並べて記している。我が国では皇極の重祚を斉明と号し、孝謙の重祚を称徳と号している。異国とは異なる。皇位を重んじるからであろうか。先賢の議論にはきっとしかるべきわけがあるのだろう。乙卯の年に即位された。このたびは大和の岡本におられた。後の岡本宮と申し上げる。この御世は中国の唐の高宗の時にあたる。
解説
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