神皇正統記 / 巻三 第三十五代 舒明天皇
第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも敏達の御女也。推古天皇は聖徳太子の御子に伝へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。又太子御病にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の申付給へりけるとぞ。癸丑年即位。大倭の高市郡岡本の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おまし〳〵き。
新字:第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも敏達の御女也。推古天皇は聖徳太子の御子に伝へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曽孫にまします。又太子御病にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の申付給へりけるとぞ。癸丑年即位。大倭の高市郡岡本の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おまし〳〵き。
書き下し
第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも敏達の御女也。推古天皇は聖徳太子の御子に伝へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。又太子御病にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の申付給へりけるとぞ。癸丑年即位。大倭の高市郡岡本の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おましましき。
現代語訳
第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄皇子(おしさかのおおえのみこ)の子で、敏達天皇の孫である。母は糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)で、これも敏達天皇の娘である。推古天皇は聖徳太子の御子に位をお伝えになろうとお考えになったのであろうか。しかし(舒明天皇は)まさしく敏達天皇の御孫であり、欽明天皇の嫡流の曾孫であられる。また太子が病に臥せられたとき、天皇がこの皇子を御使いとして見舞わせられたところ、天下のことを太子が申し付けられたという。癸丑の年に即位された。大和の高市郡の岡本宮におられた。この即位の年は中国の唐の太宗の初め、貞観三年にあたる。天下を治められたのは十三年で、四十九歳であられた。
解説
関連する章句
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