神皇正統記 / 巻三 第三十四代 推古天皇
是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おまし〳〵き。
書き下し
是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おましましき。
現代語訳
これより、この国からも常に使いを遣わされた。その使いを遣隋大使と名づけられたが、治世二十七年己卯の年に隋が滅んで唐の世に移った。二十九年辛巳の年に太子がお隠れになった。御年四十九であった。天皇をはじめ申し上げて、天下の人々が悲しみ惜しみ申し上げることは、父母の喪に服するようであった。皇位もお継ぎになるはずであったが、仏の化身であられたので、きっとわけがあったのであろう。御諱を聖徳とお名づけ申し上げる。この天皇が天下を治められたのは三十六年で、七十歳であられた。
解説
遣隋使の派遣、隋から唐への交替、そして聖徳太子の死を記す。親房は太子の死を悼む人々の様子を「父母に喪するがごとし」と書き、皇位を継ぐはずだったのに継がなかったことを、仏の化身であるからには何かわけがあったのだろうと推し量る。この推し量り方に親房の太子観がよく出ている。天皇にならなかったことを欠けたこととは見ず、人の世の位を超えた存在であったからだと受け止めるのである。太子は最後まで皇太子として政を執り、位には即かなかった。親房自身も天皇ではなく、天皇を補佐する公家として生きた人である。位に即かずに国を支えた太子の姿に、補佐する者としての理想を重ねていたと読むこともできる。頂点に立たずに組織の根幹を担う人の価値を、この段は静かに示している。
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