神皇正統記 / 巻三 皇の字
隋帝の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子の給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、さま〴〵饗祿をたまひて使をかへしつかはさる。
新字:隋帝の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子の給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、さま〴〵饗禄をたまひて使をかへしつかはさる。
書き下し
隋帝の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子の給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、さまざま饗禄をたまひて使をかへしつかはさる。
現代語訳
隋の皇帝からの書に「皇帝、つつしんで倭皇に問う」とあったのを、これは中国の天子が諸侯の王に送るときの礼式であると言って、群臣が不審に思い申しあげたところ、太子がおっしゃったのは、「皇の字は軽々しく用いる言葉ではないのだから」ということで、返書もお書きになり、さまざまな饗応と贈り物を与えて使者を返された。
解説
隋からの国書の文面をめぐるやりとりである。「倭皇」という呼び方は、中国の天子が格下の諸侯王に対して使う形式だ、と群臣が色めき立った。ところが聖徳太子の反応は逆だった。「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」——皇という字は軽々しく使う語ではないのだから、と受け止めた。相手が格下扱いしたと読むこともできる文面を、むしろ重い字を使ってくれたと読み替えて、事を荒立てずに返書を出し、饗応して送り返している。侮辱と読むか敬意と読むかは、多くの場合こちらの選択である。そして選択の基準は、相手の意図の詮索ではなく、その後の関係をどうしたいかに置かれている。親房がこの一件をわざわざ拾っているのは、南北朝という争いの渦中で、言葉尻をどう扱うかが実際の帰趨を左右することを知っていたからだろう。
この章句が説くこと
皇の字聖徳太子遣隋使解釈の選択
関連する章句
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『神皇正統記』巻一 序其後漢土より字書を伝へける時、倭と書て此国の名に用たるを、即領納して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同訓に通用しけり。漢土より倭と名けゝる事は、昔此国の人はじめて彼土にいたれりしに、「汝が国の名をばいかゞ云ふ。」と問けるを、「吾国は」と云をきゝて、即倭と名づけたりとみゆ。漢書に、「楽浪の海中に倭人あり。百余国をわかてり。」と云ふ。もし前漢の時すでに通けるか。後漢書に、「大倭王は耶麻堆に居す。」とみえたり。これは若すでに此国の使人本国の例により大倭と称するによりてかくしるせるか。大倭と云ことは異朝にも領納して書伝にのせたれば此国にのみほめて称するにあらず。唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近を云ふ。」と載たり。此事我国の古記にはたしかならず。推古天皇の御時、もろこしの隋朝より使ありて書をおくれりしに、倭皇とかく。聖徳太子みづから筆を取りて、返牒を書給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。
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『神皇正統記』巻三 第三十四代 推古天皇是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第三十四代 推古天皇此ころほひは、もろこしには隋の世也。南北朝相分しが、南は正統をうけ、北は戎狄よりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。隋は北朝の後周と云しがゆづりをうけたりき。後に南朝の陳をうちたひらげて、一統の世となれり。此天皇の元年癸丑は文帝一統の後四年也。十三年乙丑は煬帝の即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。
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『神皇正統記』巻二 第七代 孝霊天皇異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃と云るがごとし。四海と云は東夷・南蛮・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・弓の字をしたがふと云へり。孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむに足ぬことにや。此天皇天下を治給事七十六年。百十歳おはしましき。
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『玉勝間』十四の巻 こまのこきしを神子と詔り給へる事同じく孝徳天皇の御巻、高麗国の使に詔える大命に、明神と御宇す日本天皇の詔旨、天皇の遣わす所の使と、高麗の神の子の奉遣する所の使と云云、かの国王を、神の子とのたまえり。これも神とは、はじめ国を建てし神を云いて、子はその末のよしか、はた御みずから明神と詔えるに対えて、天皇の子と、親しみて詔えるか。いずれにまれ漢文の詔に、めずらしくおむかしき称にぞ有りける。
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『神皇正統記』巻三 十七条憲法又此国には昔より人すなほにして法令なんどもさだまらず。十二年甲子にはじめて冠位と云ことをさだめ、十七年己巳に憲法十七け条をつくりて奏し給。内外典のふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇悦て天下に施行せしめ給き。
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