神皇正統記 / 巻三 第三十代 欽明天皇
第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。御母皇后手白香の皇女、仁賢天皇の女也。両兄まし〳〵しかど、此天皇の御すゑ世をたもち給。御母方も仁徳のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。庚申年即位。大倭磯城嶋の金刺の宮にまします。十三年壬申十月に百済の国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。釈迦如来滅後一千十六年にあたる年、もろこしの後漢の明帝永平十年に仏法はじめて彼国につたはる。それより此壬申の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の齊文宣帝即位三年、南朝の梁簡文帝にも即位三年也。簡文帝の父をば武帝と申き。大に仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申けるによりてすてられにき。されど此国に三宝の名をきくことは此時にはじまる。又、私にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まし〳〵て三宝を感ぜられけるにこそ。
新字:第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。御母皇后手白香の皇女、仁賢天皇の女也。両兄まし〳〵しかど、此天皇の御すゑ世をたもち給。御母方も仁徳のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。庚申年即位。大倭磯城嶋の金刺の宮にまします。十三年壬申十月に百済の国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。釈迦如来滅後一千十六年にあたる年、もろこしの後漢の明帝永平十年に仏法はじめて彼国につたはる。それより此壬申の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の斉文宣帝即位三年、南朝の梁簡文帝にも即位三年也。簡文帝の父をば武帝と申き。大に仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申けるによりてすてられにき。されど此国に三宝の名をきくことは此時にはじまる。又、私にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まし〳〵て三宝を感ぜられけるにこそ。
書き下し
第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。御母皇后手白香の皇女、仁賢天皇の女也。両兄ましまししかど、此天皇の御すゑ世をたもち給。御母方も仁徳のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。庚申年即位。大倭磯城嶋の金刺の宮にまします。十三年壬申十月に百済の国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。釈迦如来滅後一千十六年にあたる年、もろこしの後漢の明帝永平十年に仏法はじめて彼国につたはる。それより此壬申の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の斉文宣帝即位三年、南朝の梁簡文帝にも即位三年也。簡文帝の父をば武帝と申き。大に仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申けるによりてすてられにき。されど此国に三宝の名をきくことは此時にはじまる。又、私にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳ましまして三宝を感ぜられけるにこそ。
現代語訳
第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体天皇の第三の子である。母は皇后の手白香皇女で、仁賢天皇の娘である。二人の兄がおられたが、この天皇の御末が世を保たれた。母方も仁徳天皇の流れであられたので、やはりその遺徳が尽きずにこのように定まったのであろうか。庚申の年に即位された。大和の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)におられた。治世十三年壬申の十月に、百済の国から仏・法・僧が伝えられた。これがこの国に伝来した始めである。釈迦如来の入滅後一千十六年にあたる年、中国の後漢の明帝の永平十年に、仏法がはじめてかの国に伝わった。それからこの壬申の年まで四百八十八年である。中国では北朝の斉の文宣帝の即位三年、南朝の梁の簡文帝もまた即位三年である。簡文帝の父を武帝と申し上げた。大いに仏法を崇められた。この御代の初めのころは武帝と同じ時代である。仏法がはじめて伝来したとき、他国の神を崇められることは我が国の神の御心に背くであろうと、群臣が固くいさめ申し上げたので、捨てられてしまった。しかしこの国で三宝の名を聞くことはこの時に始まる。また、個人的に崇めお仕えする人もあった。天皇は聖なる徳をお持ちで、三宝に心を動かされたのであろう。
解説
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