神皇正統記 / 巻三 第三十二代 用明天皇
第三十二代、用明天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫、蘇我の稲目大臣の女也。豊日の尊と申。厩戸の皇子の父におはします。丙午年即位。大和の池辺列槻の宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布せむとし給けるを、弓削守屋の大連かたむけ申、つひに叛逆におよびぬ。厩戸の皇子、蘇我の大臣と心を一にして誅戮せられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おまし〳〵き。
書き下し
第三十二代、用明天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫、蘇我の稲目大臣の女也。豊日の尊と申。厩戸の皇子の父におはします。丙午年即位。大和の池辺列槻の宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布せむとし給けるを、弓削守屋の大連かたむけ申、つひに叛逆におよびぬ。厩戸の皇子、蘇我の大臣と心を一にして誅戮せられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おましましき。
現代語訳
第三十二代、用明天皇は欽明天皇の第四の子である。母は堅塩媛(きたしひめ)で、蘇我稲目大臣の娘である。豊日尊と申し上げる。厩戸皇子の父であられる。丙午の年に即位された。大和の池辺列槻宮(いけのべのなみつきのみや)におられた。仏法を崇めて我が国に広めようとなさったのを、弓削守屋大連(ゆげのもりやのおおむらじ、物部守屋)が覆そうとし、ついに反逆に及んだ。厩戸皇子が蘇我大臣と心を一つにして誅伐され、そのまま仏法を広められたのであった。天皇が天下を治められたのは二年で、四十一歳であられた。
解説
用明天皇の条は、仏法を広めようとした天皇と、それに抗った物部守屋の対立を記す。親房は守屋の側を「叛逆」と呼び、厩戸皇子と蘇我大臣がこれを誅して仏法が広まったとする。仏教受容をめぐる争いは、実際には蘇我氏と物部氏という有力豪族の権力争いでもあったが、親房は仏法を崇める側を正とする立場で書いている。母が蘇我稲目の娘であることが記されている点も見逃せない。この代から、蘇我氏の娘が天皇の母となり、外戚として朝廷に力を持つ流れがはっきりしてくる。やがてその蘇我氏が皇室をないがしろにし、皇極天皇の条で滅ぼされるに至る。仏法を広めた功労者が、のちに専横の家となる。同じ家が一つの代では正しい側に立ち、次の代では討たれる側に回るという推移を、親房は代を追って淡々と書き継いでいく。
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