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神皇正統記 / 巻三 第二十二代 雄略天皇

神拝奉るも先づ此宮を先とす。天孫瓊々杵の尊此宮の相殿にまします。仍天児屋の命・天太玉の命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所[の]太神宮と申。丹波より遷らせ給ことは、昔豊鋤入姫の命、天照太神を頂戴して、丹波の吉佐の宮にうつり給ける比、此神あまくだりて一所におはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ給。それより此神は丹波にとまらせ給しを、道主の命と云人いつき申けり。古は此宮にて御饌をとゝのへて、内宮へも毎日におくり奉しを、神亀年中より外宮に御饌殿をたてゝ、内宮のをも一所にて奉となん。かやうの事によりて、御饌の神と申説あれど、御食と御気との両義あり。陰陽元初の御気なれば、天の狭霧・国の狭霧と申御名もあれば、猶さきの説を正とすべしとぞ。天孫さへ相殿にましませば、御饌の神と云説は用がたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おまし〳〵き。

書き下し

神拝奉るも先づ此宮を先とす。天孫瓊々杵の尊此宮の相殿にまします。仍天児屋の命・天太玉の命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所の太神宮と申。丹波より遷らせ給ことは、昔豊鋤入姫の命、天照太神を頂戴して、丹波の吉佐の宮にうつり給ける比、此神あまくだりて一所におはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ給。それより此神は丹波にとまらせ給しを、道主の命と云人いつき申けり。古は此宮にて御饌をとゝのへて、内宮へも毎日におくり奉しを、神亀年中より外宮に御饌殿をたてゝ、内宮のをも一所にて奉となん。かやうの事によりて、御饌の神と申説あれど、御食と御気との両義あり。陰陽元初の御気なれば、天の狭霧・国の狭霧と申御名もあれば、猶さきの説を正とすべしとぞ。天孫さへ相殿にましませば、御饌の神と云説は用がたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おましましき。

現代語訳

神を拝み申し上げるのも、まずこの宮を先とする。天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)がこの宮の相殿におられる。それで天児屋命(あめのこやねのみこと)・天太玉命(あめのふとだまのみこと)も天孫に付き従って相殿におられるのである。これより二所の太神宮と申し上げる。丹波からお遷りになったわけは、昔、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が天照太神を奉じて丹波の吉佐宮に移られたころ、この神が天降って一つ所におられた。四年たって天照太神はまた大和にお帰りになった。それからこの神は丹波にとどまっておられたのを、道主命という人がお祀り申し上げていた。昔はこの宮で神饌を調えて、内宮へも毎日お送り申し上げていたが、神亀年中から外宮に御饌殿を建てて、内宮の分も一か所で奉るようになったという。こうしたことから御饌(みけ)の神と申す説もあるが、「みけ」には御食と御気の二つの意味がある。陰陽の初めの気であり、天の狭霧・国の狭霧という御名もあるので、やはり先の説(天御中主神とする説)を正しいとすべきだという。天孫さえ相殿におられるのだから、御饌の神という説は採りがたいことであろうか。この天皇が天下を治められたのは二十三年で、八十歳であられた。

解説

前段に続き、外宮の神が何者かを論じる。外宮の豊受大神は一般に神々の食事をつかさどる御饌の神とされるが、親房はその説を退ける。理由は二つある。一つは「みけ」に御食と御気の両義があり、天地の初めの気と読めば天の狭霧・国の狭霧という神名とも合うこと。もう一つは、天孫瓊々杵尊が相殿に祀られているのに、その主神が食事係であるはずがないということだ。これは伊勢外宮の度会氏が唱えた説で、外宮の神を天地開闢の根源神とし、内宮と並ぶ格に引き上げるものだった。親房は「とぞ」と伝聞の形をとりつつ、「用がたき事にや」と自分の判断を添えている。神の格をどう定めるかは、祭祀の順序や神職の立場に直結する実際の問題でもあった。呼び名一つの解釈が、その後の序列全体を左右することがある。

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