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神皇正統記 / 巻三 第二十二代 雄略天皇

第二十二代、雄略天皇は允恭第五[の]子、安康同母の弟也。大泊瀬尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王及円の大臣を誅せらる。あまさへ其の事にくみせられざりし市辺押羽皇子をさへにころして位に即給。ことし丁酉の年也。大和の泊瀬朝倉の宮にまします。天皇性猛まし〳〵けれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳冬十月に、伊勢の皇太神大和姫の命にをしへて、丹波国与佐の魚井の原よりして豊受太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞し給しによりて、明年戊午の秋七月に勅使をさしてむかへたてまつる。九月に度会の郡山田の原の新宮にしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴の宮に遷らしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武の始よりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで大倭姫の命存生し給しかば、内外宮のつくりも、日の小宮の図形・文形によりてなさせ給けりとぞ。抑此神の御事異説まします。外宮には天祖天御中主の神と申伝たり。されば皇太神の託宣にて、此宮の祭を先にせらる。

書き下し

第二十二代、雄略天皇は允恭第五の子、安康同母の弟也。大泊瀬尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王及円の大臣を誅せらる。あまさへ其の事にくみせられざりし市辺押羽皇子をさへにころして位に即給。ことし丁酉の年也。大和の泊瀬朝倉の宮にまします。天皇性猛ましましけれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳冬十月に、伊勢の皇太神大和姫の命にをしへて、丹波国与佐の魚井の原よりして豊受太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞し給しによりて、明年戊午の秋七月に勅使をさしてむかへたてまつる。九月に度会の郡山田の原の新宮にしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴の宮に遷らしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武の始よりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで大倭姫の命存生し給しかば、内外宮のつくりも、日の小宮の図形・文形によりてなさせ給けりとぞ。抑此神の御事異説まします。外宮には天祖天御中主の神と申伝たり。されば皇太神の託宣にて、此宮の祭を先にせらる。

現代語訳

第二十二代、雄略天皇は允恭天皇の第五の子で、安康天皇と同じ母の弟である。大泊瀬尊(おおはつせのみこと)と申し上げる。安康天皇が殺されたとき、眉輪王と円大臣を誅された。そればかりか、その事件に加わっていなかった市辺押羽皇子(いちのべのおしはのみこ)までも殺して位に即かれた。この年は丁酉の年である。大和の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)におられた。天皇は気性の荒い方であられたが、神に通じておられたという。治世二十一年丁巳の冬十月に、伊勢の皇太神(天照大神)が倭姫命(やまとひめのみこと)に教えて、丹波国与佐の魚井の原から豊受太神をお迎えするよう告げられた。倭姫命が奏上されたので、翌年戊午の秋七月に勅使を遣わしてお迎え申し上げた。九月に度会郡山田の原の新しい宮にお鎮まりになった。垂仁天皇の御代に皇太神が五十鈴の宮にお遷りになってから、四百八十四年になった。神武天皇の初めからはすでに千百年余りになったであろうか。またこの時まで倭姫命がご存命であったので、内宮・外宮の造りも日の小宮の図形・文形に基づいてなさったという。そもそもこの神については異なる説がある。外宮は天祖である天御中主神と申し伝えている。だからこそ皇太神の託宣によって、この宮の祭りを先に行うのである。

解説

雄略天皇は兄を殺した者を討つだけでなく、事件に関わりのない従兄弟の市辺押羽皇子まで殺して位に即いた。親房は「性猛まし〳〵けれども、神に通じ給へり」と、荒さと神意の両方を記す。そのうえで筆は伊勢の外宮の起こりへ移る。豊受太神を丹波から迎えた由来は、伊勢の外宮の神官である度会氏の伝える神道説に拠るもので、親房はこれを深く学んでいた。外宮の神を天御中主神とし、祭りを外宮から先に行う理由をそこに求めるのは、度会神道の主張そのものである。親房がこの説を正史の年紀の中に組み込んで記しているのは、神国論の土台を伊勢に置くためである。皇位を血で得た天皇の代に国家祭祀の枠が整ったという並びは皮肉にも見えるが、親房は人の行いの善悪と神の定めを別の層として書き分けている。

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