神皇正統記 / 巻三 第二十一代 安康天皇
第二十一代、安康天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中姫、稚渟野毛二派の皇子女也。甲午年即位。大和穴穂宮にまします。大草香皇子をころして其妻をとりて皇后とす。彼皇子の子眉輪王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入しけり。天皇高楼の上に酔臥給けるをうかゞひて、さしころして、大臣葛城の円が家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おまし〳〵き。
書き下し
第二十一代、安康天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中姫、稚渟野毛二派の皇子女也。甲午年即位。大和穴穂宮にまします。大草香皇子をころして其妻をとりて皇后とす。彼皇子の子眉輪王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入しけり。天皇高楼の上に酔臥給けるをうかゞひて、さしころして、大臣葛城の円が家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おましましき。
現代語訳
第二十一代、安康天皇は允恭天皇の第二の子である。母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)で、稚渟野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の娘である。甲午の年に即位された。大和の穴穂宮におられた。大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺して、その妻を奪って皇后とした。その皇子の子である眉輪王(まよわのおおきみ)は幼く、母について宮中に出入りしていた。天皇が高殿の上で酔って寝ておられるところをうかがって刺し殺し、大臣葛城円(かずらきのつぶら)の家に逃げこもった。この天皇が天下を治められたのは三年で、五十六歳であられた。
解説
安康天皇の条は、即位の型どおりの記事のあとに、天皇が殺される経緯をそのまま書く。大草香皇子を殺してその妻を皇后とし、その連れ子の眉輪王に寝込みを刺される。親房は評語を一つも加えていないが、何をしたかと、どう終わったかを続けて並べるだけで、因果は読み手に十分伝わる。幼い後村上天皇に宛てた書であることを思えば、この並べ方そのものが一つの教えになっている。皇位にある者でも、人の妻を奪い恨みを残せば身近なところから報いが来る。この事件は次の雄略天皇の即位へ直結し、皇族同士の殺し合いが続く発端になる。上に立つ者の私欲が一つの家の恨みを生み、それが連鎖して組織全体を揺るがすという筋は、時代を問わず繰り返されてきた。
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