神皇正統記 / 巻二 第十五代 神功皇后
又魏国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉と云し年、魏又滅て晉の代にうつりにき。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おまし〳〵き。
新字:又魏国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉と云し年、魏又滅て晋の代にうつりにき。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おまし〳〵き。
書き下し
又魏国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉と云し年、魏又滅て晋の代にうつりにき。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おましましき。
現代語訳
また魏の国にも通じられたかと見える。四十九年乙酉という年、魏もまた滅んで晋の代に移った。この皇后が天下を治められたことは六十九年。一百歳でいらっしゃった。
解説
神功皇后の段の結びである。わずかな記事のなかで、親房は中国の王朝の移り変わりをもう一度書き添えている。皇后の摂政の間に、漢は魏に譲り、その魏もまた滅んで晋に代わった。一人の皇后が六十九年にわたって天下を治めている間に、中国では二度も王朝が入れ替わったことになる。親房はこの対比を論評として述べてはいないが、並べて書くことで、日本の皇統が長く安定していたことを読み手に印象づけている。もっとも、治世六十九年、百歳という数字は伝承上のもので、史実とは限らない。また親房は皇后を「代」に数えながら「世」には数えず、正統の線は仲哀天皇から応神天皇へ直接引いている。長く政をとった人を正当に評価しつつ、継承の筋そのものは別に押さえておく。功績と正統を混同しないこの書の数え方が、女性の摂政という例外的な場面でもきちんと守られている。
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