神皇正統記 / 巻二 第十三代 成務天皇
第十三代、成務天皇は景行第三[の]子。御母八坂入姫、八坂入彦の皇子[の]女也。日本武尊日嗣をうけ給ふべかりしに、世をはやくしまし〳〵しかば、此御門立給。辛未歳即位。近江の志賀高穴穂の宮にまします。神武より十二代、大和国にまし〳〵き。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰を大臣とす。四十八年の春、姪仲足彦の尊をたてゝ皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おまし〳〵き。
新字:第十三代、成務天皇は景行第三[の]子。御母八坂入姫、八坂入彦の皇子[の]女也。日本武尊日嗣をうけ給ふべかりしに、世をはやくしまし〳〵しかば、此御門立給。辛未歳即位。近江の志賀高穴穂の宮にまします。神武より十二代、大和国にまし〳〵き。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿祢を大臣とす。四十八年の春、姪仲足彦の尊をたてゝ皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おまし〳〵き。
書き下し
第十三代、成務天皇は景行第三の子。御母八坂入姫、八坂入彦の皇子の女也。日本武尊日嗣をうけ給ふべかりしに、世をはやくしましまししかば、此御門立給。辛未歳即位。近江の志賀高穴穂の宮にまします。神武より十二代、大和国にましましき。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰を大臣とす。四十八年の春、姪仲足彦の尊をたてゝ皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おましましき。
現代語訳
第十三代、成務天皇は景行天皇の第三の子。御母は八坂入姫で、八坂入彦皇子の娘である。日本武尊が日嗣を受けられるはずであったが、早く世を去られたので、この天皇がお立ちになった。辛未の年に即位。近江の志賀の高穴穂の宮においでになる。神武天皇から十二代は大和国においでになった。この時はじめて他国に移られた。三年の春、武内宿禰を大臣とした。四十八年の春、甥の仲足彦尊を立てて皇太子とした。天下を治められたことは六十一年。百七歳でいらっしゃった。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻二 第十四代 仲哀天皇第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。御母両道入姫、垂仁天皇の女也。大祖神武より第十二代景行までは代のまゝに継体し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりましまししより、代と世とかはれる初也。これよりは世を本としるし奉べき也。此天皇御かたちいときらきらしく、御たけ一丈ましましける。壬申の年即位。此御時熊襲又反乱して朝貢せず。天皇軍をめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給。皇后息長足姫尊は越前の国笥飯の神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に宝の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日の行宮にしてかくれ給。長門にをさめ奉る。是を穴戸豊浦の宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武の尊世をはやくしましゝによりて、御弟成務へだゝり給しかど、日本武の御子にて仲哀伝へましましぬ。仲哀・応神の御後に仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にて日嗣たえましゝ時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ立給。これなむめづらしきためしに侍る。
-
『神皇正統記』巻二 第十二代 景行天皇第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏ことごとく平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」
-
『神皇正統記』巻二 第十七代 仁徳天皇第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫の命、五百城入彦皇子女也。大鷦鷯の尊と申。応神の御時、菟道稚皇子と申は最末の御子にてましまししをうつくしみ給て、太子に立むとおぼしめしけり。兄の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神悦まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐になん定め給ける。応神かくれましまししかば、御兄達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を一にして彼を誅せられき。爰太子天位を尊に譲給。尊堅くいなみ給、三年になるまで互に譲て位を空す。太子は山城の宇治にます。尊は摂津の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁となりしかば、太子みづから失給ぬ。尊おどろき歎給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉の年即位。摂津国難波高津の宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。
-
『神皇正統記』巻二 第十七代 仁徳天皇〜第十九代 反正天皇天下を治給こと八十七年。百十歳おましましき。 ○第十八代、履中天皇は仁徳の太子。御母磐之姫の命、葛城の襲津彦の女也。庚子の年即位。又大和の磐余稚桜の宮にまします。後の稚桜の宮と申。天下を治給こと六年。六十七歳おましましき。 ○第十九代、反正天皇は仁徳第三の子、履中同母の弟也。丙午年即位。河内の丹比の柴籬の宮にまします。天下を治給こと六年。六十歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻二 第一代 神武天皇人皇第一代、神日本磐余彦天皇と申。後に神武となづけたてまつる。地神鸕鶿草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神小童第二の女也。伊弉諾尊には六世、大日孁の尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしの詞によりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとに宮所をうつされしかば、其所を名づけて御名とす。此天皇をば橿原の宮と申、是也。又神代より至て尊を尊と云、其次を命と云ふ。人の代となりては天皇とも号したてまつる。臣下にも朝臣・宿禰・臣などと、いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古には尊とも命とも兼て称けるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、臣を命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此天皇御年十五にて太子に立、五十一にて父神にかはりて皇位にはつかしめ給。ことし辛酉なり。筑紫日向の宮崎の宮におはしましけるが、兄の神達および皇子群臣に勅して、東征のことあり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る