神皇正統記 / 巻二 第十四代 仲哀天皇
第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。御母両道入姫、垂仁天皇[の]女也。大祖神武より第十二代景行までは代のまゝに継体し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりまし〳〵しより、代と世とかはれる初也。これよりは世を本としるし奉べき也。此天皇御かたちいときら〳〵しく、御たけ一丈まし〳〵ける。壬申の年即位。此御時熊襲又反乱して朝貢せず。天皇軍をめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給。皇后息長足姫尊は越前の国笥飯の神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に宝の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日の行宮にしてかくれ給。長門にをさめ奉る。是を穴戸豊浦の宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おまし〳〵き。
書き下し
第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。御母両道入姫、垂仁天皇の女也。大祖神武より第十二代景行までは代のまゝに継体し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりましまししより、代と世とかはれる初也。これよりは世を本としるし奉べき也。此天皇御かたちいときらきらしく、御たけ一丈ましましける。壬申の年即位。此御時熊襲又反乱して朝貢せず。天皇軍をめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給。皇后息長足姫尊は越前の国笥飯の神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に宝の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日の行宮にしてかくれ給。長門にをさめ奉る。是を穴戸豊浦の宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おましましき。
現代語訳
第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊の第二の子で、景行天皇の御孫である。御母は両道入姫で、垂仁天皇の娘である。大祖の神武天皇から第十二代の景行天皇までは、代のとおりに位を継承された。日本武尊が早く世を去られたことによって、成務天皇がこれを継がれた。その成務天皇がこの天皇を太子として位を譲られたことが、代と世とが食い違う初めである。これからは世を本として記し申しあげるべきである。この天皇はお姿がたいそう美しく、身の丈は一丈でいらっしゃった。壬申の年に即位。この御時、熊襲がまた反乱して朝貢しなかった。天皇は軍を召して自ら征伐をなさろうと、筑紫に向かわれた。皇后の息長足姫尊は越前国の笥飯の神に参詣されて、そこから北の海をめぐって天皇と行き会われた。ここに神があって皇后に語り申しあげる。「これより西に宝の国がある。討って従えられよ。熊襲は小さな国である。また伊弉諾・伊弉冊の生まれた国であるから、討たなくてもついには従い申すだろう」とあったのを、天皇は承知されなかった。事を成し遂げずに、橿日の行宮で亡くなられた。長門に葬り申しあげる。これを穴戸の豊浦の宮と申す。天下を治められたことは九年。五十二歳でいらっしゃった。
解説
関連する章句
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