神皇正統記 / 巻二 第七代 孝霊天皇
異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃と云るがごとし。四海と云は東夷・南蛮・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・弓の字をしたがふと云へり。孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむに足ぬことにや。此天皇天下を治給事七十六年。百十歳おはしましき。
書き下し
異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃と云るがごとし。四海と云は東夷・南蛮・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・弓の字をしたがふと云へり。孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむに足ぬことにや。此天皇天下を治給事七十六年。百十歳おはしましき。
現代語訳
異国ではこの国を東夷とする。この国からはまた彼の国を西蕃というのと同じである。四海というのは東夷・南蛮・西羌・北狄である。南は蛇の種族なので虫の字を従え、西は羊ばかりを飼うので羊の字を従え、北は犬の種族なので犬の字を従えている。ただ東は仁があって命が長い。それで大と弓の字を従える(夷の字)という。孔子の時でさえこちらのことを知っておられたのだから、秦の世に通交したことは怪しむに足りないことであろうか。この天皇が天下を治められたことは七十六年。百十歳でいらっしゃった。
解説
中国がこの国を「東夷」と呼ぶことへの親房の応じ方である。まず、こちらからも彼の国を「西蕃」と呼ぶのだから同じことだ、と呼び方が相対的であることを示す。そのうえで四方の異民族を表す字を比べ、蛮には虫、羌には羊、狄には犬が付くのに対し、夷は大と弓から成り、東方の人は仁があって長命だからこの字を使うのだと説く。夷の字を大と弓の組み合わせとするのは『説文解字』に見え、東夷を仁あって生を好む人々とするのは中国の史書に見える説である。親房は中国の字書と史書に拠って、蔑称と受け取られかねない呼び名を、むしろ好意的な呼び名として読み替えている。聖徳太子が隋の国書の「倭皇」を重い字として受け止めた話とも通じる。相手の付けた呼び名に反発するより、その言葉の中に自分の拠り所を見つけて応じる。言葉の争いの受け流し方として参考になる。
関連する章句
-
『神皇正統記』巻二 第七代 孝霊天皇第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫、天足彦国押人命の女也。辛未年即位。大和の黒田廬戸の宮にまします。三十六年丙午にあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯、秦の始皇即位。此の始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼国にもとめしに、始皇ことごとくこれをおくる。其後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字ありとはきかぬ事なれど、上古のことは慥に注とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代より伝けん事もあながちに疑まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を歎て、「九夷にをらん。」との給ける。日本は九夷の其一なるべし。
-
『神皇正統記』巻一 序其後漢土より字書を伝へける時、倭と書て此国の名に用たるを、即領納して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同訓に通用しけり。漢土より倭と名けゝる事は、昔此国の人はじめて彼土にいたれりしに、「汝が国の名をばいかゞ云ふ。」と問けるを、「吾国は」と云をきゝて、即倭と名づけたりとみゆ。漢書に、「楽浪の海中に倭人あり。百余国をわかてり。」と云ふ。もし前漢の時すでに通けるか。後漢書に、「大倭王は耶麻堆に居す。」とみえたり。これは若すでに此国の使人本国の例により大倭と称するによりてかくしるせるか。大倭と云ことは異朝にも領納して書伝にのせたれば此国にのみほめて称するにあらず。唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近を云ふ。」と載たり。此事我国の古記にはたしかならず。推古天皇の御時、もろこしの隋朝より使ありて書をおくれりしに、倭皇とかく。聖徳太子みづから筆を取りて、返牒を書給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。
-
『慎思録』巻之四子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かざるなり、と。凡そ夷狄の人は、学ばずして道を知らず。然り而して秉彝好徳の心は、自ら泯滅すべからず。故に蛮貊の邦、澆漓の時と雖も、亦た人倫の道無きこと能はず。各君長有りて之に臣属す。吾が邦の如きは、神武帝宇内を馭してより已降、今日に至るまで、帝冑接続し、永く宝祚を践む。後世号令朝廷より出でずと雖も、然れども世々君臣上下の分有りて、相僭乱せず。其の存厚の道、万世と雖も知るべきなり。文献通考に載す、宋の太宗雍熙元年、日本国の僧奝然至る。上其の国王一姓伝継するを聞き、因りて宰相に謂ひて曰く、此れ島夷のみ。乃ち世祚遐遠なり。蓋し古の道なり、と。此れも亦た以て夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かざると為すべきなり。夫れ本邦の帝胤、万世伝継して易はらず。此の一事は吾が邦の一大美事、万世不易の法と為すべくして、中華及び諸夷の及ばざる所以なり。
-
『神皇正統記』巻二 第二十代 允恭天皇第二十代、允恭天皇は仁徳第四の子、履中反正同母の弟也。壬子の年即位。大和の遠明日香の宮にまします。此御時までは三韓の御調年々にかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年己未にあたりて、もろこしの晋ほろびて南北朝となる。宋・斉・梁・陳あひつぎて起る。是を南朝と云ふ。後魏・北斉・後周つぎつぎにおこれりしを北朝と云ふ。百七十余年はならびて立たりき。此天皇天下を治給こと四十二年。八十歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻三 皇の字隋帝の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子の給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、さまざま饗禄をたまひて使をかへしつかはさる。
-
『神皇正統記』巻一 序大日本とも大倭とも書ことは、此国に漢字伝て後、国の名をかくに字をば大日本と定てしかも耶麻土とよませたるなり。大日孁のしろしめす御国なれば、其義をもとれるか、はた日の出る所にちかければしかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもとゝはよまず。耶麻土と訓ぜり。我国の漢字を訓ずること多く如此。おのづから日の本などいへるは文字によれるなり。国の名とせるにあらず。又古より大日本とも若は大の字をくはへず、日本ともかけり。州の名を大日本豊秋津といふ。懿徳・孝霊・孝元等の御謚みな大日本の字あり。垂仁天皇の御女大日本姫と云ふ。これみな大の字あり。天神饒速日尊、天の磐船にのり大虚をかけりて「虚空見日本の国」との給。神武の御名神日本磐余彦と号したてまつる。孝安を日本足、開化を稚日本とも号、景行天皇の御子小碓の皇子を日本武の尊となづけ奉る。是は大を加ざるなり。彼此同くやまとゝよませたれど大日孁の義をとらば、おほやまとゝ読てもかなふべきか。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る