神皇正統記 / 巻二 第七代 孝霊天皇
第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫、天足彦国押人命の女也。辛未年即位。大和の黒田廬戸の宮にまします。三十六年丙午にあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯、秦の始皇即位。此の始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼国にもとめしに、始皇こと〴〵くこれをおくる。其後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字ありとはきかぬ事なれど、上古のことは慥に注とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代より伝けん事もあながちに疑まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を歎て、「九夷にをらん。」との給ける。日本は九夷の其一なるべし。
新字:第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫、天足彦国押人命の女也。辛未年即位。大和の黒田廬戸の宮にまします。三十六年丙午にあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯、秦の始皇即位。此の始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼国にもとめしに、始皇こと〴〵くこれをおくる。其後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字ありとはきかぬ事なれど、上古のことは慥に注とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代より伝けん事もあながちに疑まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を嘆て、「九夷にをらん。」との給ける。日本は九夷の其一なるべし。
書き下し
第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫、天足彦国押人命の女也。辛未年即位。大和の黒田廬戸の宮にまします。三十六年丙午にあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯、秦の始皇即位。此の始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼国にもとめしに、始皇ことごとくこれをおくる。其後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字ありとはきかぬ事なれど、上古のことは慥に注とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代より伝けん事もあながちに疑まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を歎て、「九夷にをらん。」との給ける。日本は九夷の其一なるべし。
現代語訳
第七代、孝霊天皇は孝安天皇の太子。御母は押姫で、天足彦国押人命の娘である。辛未の年に即位。大和の黒田の廬戸の宮においでになる。三十六年丙午にあたる年、中国の周の国が滅んで秦に移った。四十五年乙卯、秦の始皇帝が即位した。この始皇帝は仙術を好んで、不老不死の薬を日本に求めた。日本からは五帝三皇の遺書を彼の国に求めたところ、始皇帝はことごとくこれを送ってきた。その後三十五年を経て、彼の国では書を焼き、儒者を穴に埋めたので、孔子の完全な経書は日本にとどまっているという。このことは異国の書に載っている。わが国では、神功皇后が三韓を平らげられてから異国と通じ、応神天皇の御代から経書・史書の学問が伝わったと言い習わしている。孝霊天皇の御時からこの国に文字があったとは聞かないことだが、上古のことは確かに書き留めていないのであろうか。応神天皇の御代に渡った経書・史書でさえ今は見えない。聖武天皇の御時に吉備大臣(吉備真備)が入唐して伝えた本こそが流布しているのだから、この御代から伝わったということも、あながち疑うべきではないのだろうか。およそこの国を君子不死の国ともいうのである。孔子は世の乱れを嘆いて、「九夷に住もう」とおっしゃった。日本は九夷のその一つであろう。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻二 第七代 孝霊天皇異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃と云るがごとし。四海と云は東夷・南蛮・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・弓の字をしたがふと云へり。孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむに足ぬことにや。此天皇天下を治給事七十六年。百十歳おはしましき。
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇第十六代、第十五世、応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中の天皇とも、又は誉田天皇ともなづけたてまつる。庚寅年即位。大和の軽嶋豊明の宮にまします。此時百済より博士をめし、経史をつたへられ、太子以下これをまなびならひき。此国に経史及文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開て後、すさのをの尊韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神の御すゑなれば、なにしにか代くだれる呉太伯が後にあるべき。三韓・震旦に通じてより以来、異国の人おほく此国に帰化しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録と云文をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。
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『神皇正統記』巻二 第八代 孝元天皇〜第九代 開化天皇第八代、孝元天皇は孝霊の太子。御母細媛、磯城県主の女也。丁亥年即位。大倭の軽境原の宮にまします。九年乙未の年、もろこしの秦滅て漢にうつりき。此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳おましましき。 ○第九代、開化天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎姫、穂積の臣上祖鬱色雄命妹也。甲申年即位。大和の春日率川の宮にまします。天下を治給こと六十年。百十五歳おましましき。
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『神皇正統記』巻二 第二代 綏靖天皇第二代、綏靖天皇は神武第二の御子。御母鞴五十鈴姫、事代主の神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給。庚辰年也。大和葛城高岡の宮にまします。三十一年庚戌の年もろこしの周の二十三代の君、霊王の二十一年也。ことし孔子誕生す。自是七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。此道は昔の賢王、唐堯、虞舜、夏の初の禹、殷のはじめの湯、周のはじめの文王・武王・周公の国を治め、民をなで給し道なれば、心を正しくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすを宗とす。さればことなる道にはあらねども、末代となりて、人不正になりしゆゑに、其道ををさめて儒教をたてらるゝ也。天皇天下を治給こと三十三年。八十四歳おましましき。
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『神皇正統記』巻二 第十五代 神功皇后皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内の大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。
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『神皇正統記』巻二 第一代 神武天皇天児屋根命の孫天種子の命、天太玉の命の孫天富の命もはら神事をつかさどる。神代の例にことならず。又霊畤を鳥見山の中にたてゝ、天神・地祇をまつらしめ給。此御代の始、辛酉の年、もろこしの周の世、第十七代にあたる君、恵王の十七年也。五十七年丁巳は周の二十一代の君、定王の三年にあたれり。ことし老子誕生す。是は道教の祖也。天竺の釈迦如来入滅し給しより元年辛酉までは二百九十年になれるか。此天皇天下を治給こと七十六年。一百二十七歳おはしき。
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