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神皇正統記 / 巻一 序

其後漢土より字書を伝へける時、倭と書て此国の名に用たるを、即領納して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同訓に通用しけり。漢土より倭と名けゝる事は、昔此国の人はじめて彼土にいたれりしに、「汝が国の名をばいかゞ云ふ。」と問けるを、「吾国は」と云をきゝて、即倭と名づけたりとみゆ。漢書に、「楽浪の海中に倭人あり。百余国をわかてり。」と云ふ。もし前漢の時すでに通けるか。後漢書に、「大倭王は耶麻堆に居す。」とみえたり。これは若すでに此国の使人本国の例により大倭と称するによりてかくしるせるか。大倭と云ことは異朝にも領納して書伝にのせたれば此国にのみほめて称するにあらず。唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近を云ふ。」と載たり。此事我国の古記にはたしかならず。推古天皇の御時、もろこしの隋朝より使ありて書をおくれりしに、倭皇とかく。聖徳太子みづから筆を取りて、返牒を書給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。

書き下し

其後漢土より字書を伝へける時、倭と書て此国の名に用たるを、即領納して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同訓に通用しけり。漢土より倭と名けゝる事は、昔此国の人はじめて彼土にいたれりしに、「汝が国の名をばいかゞ云ふ。」と問けるを、「吾国は」と云をきゝて、即倭と名づけたりとみゆ。漢書に、「楽浪の海中に倭人あり。百余国をわかてり。」と云ふ。もし前漢の時すでに通けるか。後漢書に、「大倭王は耶麻堆に居す。」とみえたり。これは若すでに此国の使人本国の例により大倭と称するによりてかくしるせるか。大倭と云ことは異朝にも領納して書伝にのせたれば此国にのみほめて称するにあらず。唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近を云ふ。」と載たり。此事我国の古記にはたしかならず。推古天皇の御時、もろこしの隋朝より使ありて書をおくれりしに、倭皇とかく。聖徳太子みづから筆を取りて、返牒を書給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。

現代語訳

その後、中国から字書が伝わったとき、「倭」と書いてこの国の名に用いていたのを、そのまま受け入れて、この字もまた「やまと」と訓じ、日本と同じように大を加えても除いても同じ訓で通用させた。中国から倭と名づけたのは、昔この国の人がはじめてあの国に行ったとき、「おまえの国の名は何というのか」と問われたのに、「吾国(わがくに)は」と答えたのを聞いて、すぐに倭と名づけたのだと見える。『漢書』に「楽浪の海の中に倭人がいる。百余りの国に分かれている」とある。もしかすると前漢の時にすでに通交していたのか。『後漢書』には「大倭王は耶麻堆に住む」と見える。これはもしかすると、すでにこの国の使者が本国の例にならって大倭と称したので、このように記したのか。大倭ということは異国でも受け入れて書物に載せているのだから、この国だけで褒めて称しているのではない。『唐書』には「高宗の咸亨年間に、倭国の使者がはじめて改めて日本と号した。その国は東にある。日の出る所に近いことをいう」と載せている。このことはわが国の古い記録でははっきりしない。推古天皇の御時、中国の隋の朝廷から使者があって書を送ってきたが、そこに倭皇と書いてあった。聖徳太子が自ら筆をとって返書を書かれたときには、「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とあった。

解説

国の名を、外からどう呼ばれたかという側から確かめる段である。親房は『漢書』『後漢書』『唐書』と中国の正史を順に引き、倭という字の由来として「吾国(わがくに)は」と答えたのを聞き違えたという説を伝える。自国の呼び名を論じるのに、相手の記録を正面から典拠に使っていることが目を引く。しかも「大倭」の称が異国の書物にも載っていることを、自分たちだけの自賛ではない証拠として挙げている。内向きの誇りを、外の証言で裏打ちしようとしているのである。そして話は、隋の国書に対して聖徳太子が「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と返した一件に至る。東と西を並べ、皇帝に対して天皇と名乗る書式である。自分の名乗りを自分で決めるという主張が、ここで一つの文面として示される。

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