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神皇正統記 / 巻一 地神第四代 彦火々出見尊

満珠をいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「俳優の民とならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これより天日嗣をつたへまし〳〵ける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「産期にいたらば、海辺に産屋を作て待給へ。」と申き。はたして其妹玉依姫をひきゐて、海辺に行あひぬ。屋を作て鸕鶿の羽にてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりて鸕鶿草葺不合尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「産の時み給な。」と契申しを、のぞきて見ましければ、龍になりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、海陸をして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきら〳〵しくましますことをきゝて憐み崇めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世の始をいへるに、万物混然としてあひはなれず。是を混沌と云ふ。

新字:満珠をいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「俳優の民とならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これより天日嗣をつたへまし〳〵ける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「産期にいたらば、海辺に産屋を作て待給へ。」と申き。はたして其妹玉依姫をひきゐて、海辺に行あひぬ。屋を作て鸕鶿の羽にてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりて鸕鶿草葺不合尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「産の時み給な。」と契申しを、のぞきて見ましければ、竜になりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、海陸をして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきら〳〵しくましますことをきゝて憐み崇めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世の始をいへるに、万物混然としてあひはなれず。是を混沌と云ふ。

書き下し

満珠をいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「俳優の民とならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これより天日嗣をつたへましましける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「産期にいたらば、海辺に産屋を作て待給へ。」と申き。はたして其妹玉依姫をひきゐて、海辺に行あひぬ。屋を作て鸕鶿の羽にてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりて鸕鶿草葺不合尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「産の時み給な。」と契申しを、のぞきて見ましければ、龍になりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、海陸をして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきらきらしくましますことをきゝて憐み崇めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世の始をいへるに、万物混然としてあひはなれず。是を混沌と云ふ。

現代語訳

満珠を出して祈られると、潮が満ちてきて、兄はおぼれた。苦しめられて、「あなたの俳優(わざおぎ)の民となろう」と誓われたので、干珠を用いて潮を退けられた。これより、この尊が天日嗣を伝えられたのである。海中で豊玉姫が身ごもられたので、「産み月になったら、海辺に産屋を作って待っていてほしい」と申した。はたしてその妹の玉依姫を連れて、海辺で行き会った。産屋を作って鵜の羽で屋根を葺いたが、葺き終わらないうちに御子が生まれたので、鸕鶿草葺不合尊と申しあげる。また産屋を「うぶや」というのも、鵜の羽で葺いたからだという。さて「お産のときはご覧にならないでほしい」と約束申しあげていたのに、覗いてご覧になったので、姫は龍の姿になっていた。姫は恥じ恨んで、「私に恥を見せなかったならば、海と陸とを通わせて隔てることはなかったのに」と言って、御子を捨て置いて海中へ帰った。後に御子が立派でいらっしゃることを聞いて、哀れみあがめて、妹の玉依姫を差し向けて養い申しあげたという。この尊が天下を治められたことは六十三万七千八百九十二年という。震旦で世の始めを言うところでは、万物が混然として互いに離れない。これを混沌という。

解説

海幸・山幸の結末と、豊玉姫の出産の話である。弟は海神から授かった珠で潮を操って兄を従わせ、兄は俳優の民となることを誓う。ここで親房は「これより天日嗣をつたへまし〳〵ける」と記し、皇位が弟の側に伝わったことを確かめる。続く出産の場面では、見ないでほしいという約束を破って産屋を覗いたために、豊玉姫は龍の姿を見られたことを恥じ、海と陸の行き来を断って海に帰ってしまう。約束を守っていれば二つの世界は通い合っていた、という一句が重い。一度の覗き見が、取り返しのつかない隔てを生んだのである。それでも姫は後に御子の立派さを聞いて、妹を遣わして育てさせた。関係は断たれても、子への思いまでは断たれていない。信頼は小さな約束違反で崩れるが、その後にできることが何も残らないわけではない。

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