自警録 / 第二十七章 夢の実用・夢は人間の心の鏡
右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。ゆえに目覚めているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた下品な、紊れたことを見ぬものである。しかるに少し油断し、修養を怠ると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。孔子は、 「甚だしいかな、吾が衰えたるや。久しく吾れ復た夢にだも周公を見ず」 といっている。孔子が油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、周公のことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。しからばすなわち白居易の詩に、 「平生所厚者 昨夜夢見之」 とあるように、日ごろめざめているときに高尚な善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。はたしてそうならば、睡眠中のいわゆる夢魂によっていわゆる醒覚中の真意が何処にありしかを窺うこともできる。昼中働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。佐藤一斎の『言志耋録』に、 「感は是れ心の影子なり、夢は是れ心の画図なり」と、また、 「人を知るは難くして易く、自ら知るは易くして難し、但し当にこれを夢寐に徴し以て自ら知るべし、夢寐自ら欺く能わず」と。 実にそのとおりで、良木は良果を結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。しからば夢はまた吾人の平素識らず識らずに思う心の鏡と称してもよかろう。かく考えると、睡眠を利用して修養の用に供することができそうである。
書き下し
右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。ゆえに目覚めているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた下品な、紊れたことを見ぬものである。しかるに少し油断し、修養を怠ると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。孔子は、 「甚だしいかな、吾が衰えたるや。久しく吾れ復た夢にだも周公を見ず」 といっている。孔子が油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、周公のことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。しからばすなわち白居易の詩に、 「平生所厚者 昨夜夢見之」 とあるように、日ごろめざめているときに高尚な善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。はたしてそうならば、睡眠中のいわゆる夢魂によっていわゆる醒覚中の真意が何処にありしかを窺うこともできる。昼中働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。佐藤一斎の『言志耋録』に、 「感は是れ心の影子なり、夢は是れ心の画図なり」と、また、 「人を知るは難くして易く、自ら知るは易くして難し、但し当にこれを夢寐に徴し以て自ら知るべし、夢寐自ら欺く能わず」と。 実にそのとおりで、良木は良果を結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。しからば夢はまた吾人の平素識らず識らずに思う心の鏡と称してもよかろう。かく考えると、睡眠を利用して修養の用に供することができそうである。
現代語訳
右に述べたことは、夢に見たことが、現実にも目の前に続いたという例です。これと同じように、現実のことも、また夢に続くものと思います。ですから、目覚めているときに常に高い良いことを思っている人は、夢にも品のない乱れたことを見ないものです。ところが、少し油断して修養を怠ると、悪夢を結ぶか、悪夢とまではいかなくても、吉い夢を見なくなります。孔子は 「ひどいものだ、私の衰えようは。長い間、私は夢にさえ周公を見なくなった」 と言っています。孔子が油断したのかどうか、私は知りませんが、この一言は大いに考えるべきことです。この言葉を裏から見れば、衰えなかったときは、周公のことを夢にまで見た、ということを含んでいるでしょう。そうなると、白居易の詩に 「平生、厚くする所の者、昨夜、夢にこれを見る」 とあるように、日ごろ目覚めているときに高尚で善良なことを思っていれば、夢にこれを見るのでしょう。もしそうなら、睡眠中のいわゆる夢魂によって、目覚めているときの本当の心がどこにあったかを窺うこともできます。昼間働いている間、ほとんど無意識に何にもっとも心を寄せていたかは、かえって夜中に結ぶ夢によって解き明かせるでしょう。佐藤一斎の『言志耋録』に、 「感は心の影であり、夢は心の絵図である」と、また、 「人を知るのは難しいようで易しく、自分を知るのは易しいようで難しい。ただ、これを夢の中で確かめて自分を知るべきである。夢は自分を欺くことができない」と。 実にそのとおりで、良い木が良い実を結ぶように、意識的な善行は潜在的な善い知恵を結び、潜在的な善い知恵は無意識の善い夢を結ぶという順序ではないでしょうか。そうであれば、夢はまた、私たちが平素知らず知らずに思っている心の鏡と呼んでもよいでしょう。このように考えると、睡眠を利用して修養の役に立てることができそうです。
解説

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言志四録・言志後録 第二百五十一条 夢は我が心の象一善念萌す時は、其の夜必ず安眠して夢無し。夢有れば則ち或いは正人を見、或いは君父を見、或いは吉慶の事に値ふ。周官の正夢・喜夢の類の如し。又一妄念起る時は、其の夜必ず安眠せず、夢も亦雑夢多く、恍惚として変幻す。或いは小人を見、或いは婦女を見、或いは危難の事に値ふ。周官の畸夢・懼夢の類の如し。醒めて後自ら思察するに及べば、夢中に見る所の正人君父は、即ち我が心なり。吉慶の事も、即ち我が心なり。皆善念の結ぶ所の象なり。又其の見る所の小人婦女も、亦即ち我が心なり。危難の事も、亦即ち我が心なり。皆妄念の結ぶ所の象なり。蓋し一念の善妄の夢寐に形はるるなり。自ら反みざる可けんや。死生は昼夜の道なり。仏氏の地獄天堂の権教を設くるも、亦恐らくは心の真妄を説くならん。此の夢覚と相彷彿たること無きを得んや。
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自警録・第二十七章 夢の実用・努力すれば高い境遇に登れるわが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は偶然なる現象にあらず、まったく空のものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの、一歩進んでは大いに修養の資に供すべきものであるというにほかならぬ。わが輩のこの文を見る人のうちには定めし僕の思想の浅薄なるに驚く人もあろう。 一般人士の踏む境界を脱していっそう高き境界に達したならば、夢相も夢物もみな同一の虚妄にして、すべてあるところなしと悟らるるであろうことは、あたかも先に掲げた例のとおり、現時の人類がいまだ人間にならざりし時代、すなわち今日よりもなお低き境遇にありしころの経験を、夢の中にあるごとく、折々繰り返すことあれば、荘子は高き思想界に入ってのち、自己の経験をかえりみて百年があいだ胡蝶となって花の上に戯れてのち驚き覚めたるごとく言った。形而下の世にあると、形而上の世にあるとは、物を夢と見なすのと、夢を物と見なすの差があろう。わが輩は凡人の情なさに、形而下の話をして夢を物とみなして長々しく弁じたが、形而上の思想の存在するをまったく心得ぬわけでもない。しかしわが輩のごとき考えをもって夢をも修養の用に供する工夫をし、まじめにかつ永く努めたなら、必ず一段も二段も高き境遇に進入することを得るであろう。古人の歌に、 世の中は夢か現か現とも夢とも知らずありてなければ などいう一首の意味も、吾人の立場の高低によってどうとも取れる。なおさら修養が積んだならもう一段昇りて王陽明とともにかく吟ずるの日も来たらん。 人間白日醒猶睡 人間は白日に醒むるも猶睡るがごとく 老子山中睡却醒 老子は山中に睡るも却って醒めたり 醒睡両非還両是 醒睡両つながら非 還両つながら是 溪雲漠漠水冷冷 溪雲漠漠たり 水冷冷たり
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自警録・第二十七章 夢の実用・夢とはいかなるものか普通にいう夢とは、自己の意識の行われぬときに心に触るる現象である。しかして意志の行われぬときは、普通ならば睡眠中である。ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。 人間普通八時間睡眠し、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの作用あるものであるか。僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。 農業に休田というがある。これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の作物を生育する力を増殖するために休むのである。人間の睡眠時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。ゆえにこの間に結ばるる夢は徒らに疲労せる身体の幻すなわち諺にいう五臓の煩いでなく、精神的営養物となるものと思う。
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自警録・第二十七章 夢の実用・夢は一種の潜在識(2)さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまだ猿であったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、諺に違わず、折々は木から落ちることもあったに違いない。われわれの祖先にとってはこれほど怖いことはない。悪く落ちれば絶命は必定であるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。したがってこのことは全身、全心に沁みこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の潜在識に化するにいたる。これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て冷汗をかかせる理由となる。 これについて奇態なことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。いつも夢の浮き橋で中絶するという風である。なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。 一斎翁の言に曰く、 「およそ人心の裏絶えて無きのこと、夢寐に形れず、昔人謂う、男、子を生むを夢みず、女、妻を娶るを夢みず、この言良に然り」と。 眠る時にもこの潜在識はひそかに働きつつある。ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、無垢であるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。 「夢は逆夢」とか、 「あたらぬものは夢とちょぼいち」 などいう諺は、夢をもって未来を卜する方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、逆夢ということもなくなって、「思うこと寝言」なう諺こそ事実に適うなれ。 杜甫の「夢李白」の詩に「故人入我夢、明我長相憶」と詠じたのも、後二条院の、 こひしさのねてや忘ると思へどもまたなごりそふ夢のおもかげ と歌われたのも、詩仙にかぎらぬ情である証拠は、われわれ凡人も折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。
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自警録・第二十七章 夢の実用・宝船以上の夢見る秘訣僕の素人的の考えでは、潜在識は知識を、心という土蔵の奥にある葛籠の中に入れて、しまいこんだように思われる。ゆえに日ごろよき考えと、しからざる考えとを蔵め入るるによって、潜在識の性質に異同を生ずることはいうまでもない。潜在識はその本を質せば、意志にさかのぼって、自分の力のおよばざる方面より来たる知識もあるが、その大部分は自分の希望どおりのものを選んで入れることができる。 人に交わっても、その短所のみを見、ここが心に叶わぬとか、あの風が気にくわぬとかいう、弱点のみを心の奥にある葛籠に詰め込むか、あるいは善良なる観察と思想を入るるかは、精神の持ちよういかんによってできるものと信ずる。しかしてこの貯蔵した意識が、眠るときに、葛籠より現れ出で、不愉快なものは不愉快な夢となって祟り、善事は善く出て、愉快なる夢となって、おのれの心を喜ばしかつ心を養うものである。伽話にある「舌切雀」の葛籠にいかなるものが潜在してあるかは、もらう人の与かるところでないようなものの、その根本を質せばもらう人が入れ込むのである。欲張り婆さんは、みずから化物を葛籠の中に潜在させたから、蓋を開くとともに醜怪なものが顕れだし、正直爺さんは宝物を潜在させたから、なかからあらわれ出たのがすべて財宝であった。 それと同じく宝船を枕の下に敷いて眠っても、ただ欲張り考えで眠れば、よし宝船を夢みても遠い沖を帆走る光景を見たり、あるいはかえって宝船の難破を見たりするであろう。これに反し、得たる宝を慈善的公共的その他の正当な使用に充つることを日ごろ念じながら夢をむすべば、おそらく宝船以上の宝の夢を得るであろう。しかしてかかる夢は普通にいう邯鄲の夢でなくして、理想とも称すべきものであり、また人生の実際の一部となるものである。僕が夢を一概に迷信として排斥すべからずといったのもこれがためである。
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言志四録・言志晩録 第八十二条 誠意は夢寝に兆す誠意は夢寝に兆す。不慮の知之をして然らしむ。