自警録 / 第二十七章 夢の実用・夢とはいかなるものか
普通にいう夢とは、自己の意識の行われぬときに心に触るる現象である。しかして意志の行われぬときは、普通ならば睡眠中である。ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。 人間普通八時間睡眠し、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの作用あるものであるか。僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。 農業に休田というがある。これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の作物を生育する力を増殖するために休むのである。人間の睡眠時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。ゆえにこの間に結ばるる夢は徒らに疲労せる身体の幻すなわち諺にいう五臓の煩いでなく、精神的営養物となるものと思う。
書き下し
普通にいう夢とは、自己の意識の行われぬときに心に触るる現象である。しかして意志の行われぬときは、普通ならば睡眠中である。ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。 人間普通八時間睡眠し、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの作用あるものであるか。僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。 農業に休田というがある。これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の作物を生育する力を増殖するために休むのである。人間の睡眠時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。ゆえにこの間に結ばるる夢は徒らに疲労せる身体の幻すなわち諺にいう五臓の煩いでなく、精神的営養物となるものと思う。
現代語訳
普通にいう夢とは、自分の意識が働いていないときに、心に触れる現象です。そして意志の働かないときは、普通なら睡眠中です。そのため、睡眠中に起こったことを夢と呼んでいます。しかし、人生の出来事は、はたして意識が働いているときだけに限られるものでしょうか。 人間は普通八時間眠り、その間は意志も意識も中止するのだとすれば、意識が働くのは一日のうち三分の二しかありません。人間が六十年生きるものとすれば、四十年間は意識が働いても、他の二十年間はまったく無意識に過ごす時間になります。しかしはたして、この二十年間は、まったく無意識に過ぎるものでしょうか。またもし何らかの意味があるとすれば、意識的な時間、つまり四十年の意識の時間を休ませるだけの作用があるものでしょうか。私は、この二十年間という長い時間は、そんなに単純なものではないと思います。この間は、単に身体を休め、精神を休めるというだけにとどまらないと思います。もし休むとしても、その休むということは、まったく何もしないでいるという意味ではないでしょう。 農業に休田というものがあります。これはその田地が、単に作物を育てていないというだけの意味ではなく、翌年の作物を育てる力を増すために休むのです。人間の睡眠時間もこれと同じで、何もしないでいるという消極的な作用にとどまらず、起きて大いに働く力を養う時間です。ですからこの間に結ばれる夢は、むやみに疲れた身体の幻、つまり諺にいう五臓の煩いではなく、精神的な栄養になるものだと思います。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第二十七章 夢の実用・睡眠中の時間も向上に用いられるかくのごとく意識の行わるるときのみが人生でない。また知覚の存するときのみが人生のすべてでない。空々寂々に過したり、または睡眠する時もまた人生にとっては重大な時である。 長短よりいえば、前にも述べたごとく、人生の三分の一を成しているが、この時間だけは人間の力でいかんともなしえぬとか、あるいは睡眠中は死んだも同然なりなどとは、普通に聞くところである。通常、睡眠と死とは、同一物のように思われている。さればこそ沙翁の悲劇『ハムレット』にも、「死ぬるは眠るなり、眠るはことやすけれど、眠る間に夢という恐ろしきものあるなれば云々」と死と眠りとをほとんど同一視してある。ただ時間の差異のみとみなされている。 ゆえに人の一生を生と死との二者に分けて論ずれば、睡眠はむしろ死の部に含まれているがごとくに称えられるが、僕は繰り返していいたい、睡眠の時間も、その間に結ばるる夢も、人生の一部をなすものであると。この間に直接の意識知覚が行われぬとしても、人生には重大なときであって、心がけによっては、この時間をも向上のために資することができると思う。古人の言に夢の魂などと称するものがある。 君こふる夢のたましひ行かへり、夢路をだにもわれに教へよ といい、また、 つらさのみまさり行く幾おもひやる夢のたましひいかゞ行くらん などという歌があるが、これは睡眠中の心理的動作を指すもので、今日の学者といえども捨てがたい面白い詞章であると思う。
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自警録・第二十七章 夢の実用・夢もまた人生の一部しかし夢もまた人生の一部である。ほとんど夢なきの人生はない。かりに「聖人夢なし」という句が本当なりとするも、世人ことごとく聖人ならざる以上は、やはり夢は人生に添えるものである。もし実際ならざることを夢と称するならば、未来も理想もすべて夢であるといわねばならぬ。しかし折々はかえって夢のほうが、普通にいう実際よりも、なお実際なることがある。明らかに夢見ているときでも 「これは本当であろうか」 「夢ではあるまいか」 と疑うことは、普通に人のいうところである。しかるに実際の場合にもことさらにその実際なることを感ぜしむるときは、「夢ではないか」と思う。 かりに日常普通に起こらぬ、人生のうわっつらでない事実が起こったとする。たとえば不幸の上に不幸が重なり、火災に罹った上に親を喪うとか、子を失うとか、あるいは自分が急病にかかるとか、すなわち人生のあらゆる苦しみが、一時に襲い来たるときはこれぞ人生の実際の実際たるゆえんであって、すなわち人生の蓋を除けて底に達したようなときである。人はかかる場合に会うと、これは夢ではないかと思い、夢であれかしと祈る。
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自警録・第二十七章 夢の実用・努力すれば高い境遇に登れるわが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は偶然なる現象にあらず、まったく空のものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの、一歩進んでは大いに修養の資に供すべきものであるというにほかならぬ。わが輩のこの文を見る人のうちには定めし僕の思想の浅薄なるに驚く人もあろう。 一般人士の踏む境界を脱していっそう高き境界に達したならば、夢相も夢物もみな同一の虚妄にして、すべてあるところなしと悟らるるであろうことは、あたかも先に掲げた例のとおり、現時の人類がいまだ人間にならざりし時代、すなわち今日よりもなお低き境遇にありしころの経験を、夢の中にあるごとく、折々繰り返すことあれば、荘子は高き思想界に入ってのち、自己の経験をかえりみて百年があいだ胡蝶となって花の上に戯れてのち驚き覚めたるごとく言った。形而下の世にあると、形而上の世にあるとは、物を夢と見なすのと、夢を物と見なすの差があろう。わが輩は凡人の情なさに、形而下の話をして夢を物とみなして長々しく弁じたが、形而上の思想の存在するをまったく心得ぬわけでもない。しかしわが輩のごとき考えをもって夢をも修養の用に供する工夫をし、まじめにかつ永く努めたなら、必ず一段も二段も高き境遇に進入することを得るであろう。古人の歌に、 世の中は夢か現か現とも夢とも知らずありてなければ などいう一首の意味も、吾人の立場の高低によってどうとも取れる。なおさら修養が積んだならもう一段昇りて王陽明とともにかく吟ずるの日も来たらん。 人間白日醒猶睡 人間は白日に醒むるも猶睡るがごとく 老子山中睡却醒 老子は山中に睡るも却って醒めたり 醒睡両非還両是 醒睡両つながら非 還両つながら是 溪雲漠漠水冷冷 溪雲漠漠たり 水冷冷たり
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自警録・第二十七章 夢の実用・夢は人間の心の鏡右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。ゆえに目覚めているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた下品な、紊れたことを見ぬものである。しかるに少し油断し、修養を怠ると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。孔子は、 「甚だしいかな、吾が衰えたるや。久しく吾れ復た夢にだも周公を見ず」 といっている。孔子が油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、周公のことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。しからばすなわち白居易の詩に、 「平生所厚者 昨夜夢見之」 とあるように、日ごろめざめているときに高尚な善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。はたしてそうならば、睡眠中のいわゆる夢魂によっていわゆる醒覚中の真意が何処にありしかを窺うこともできる。昼中働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。佐藤一斎の『言志耋録』に、 「感は是れ心の影子なり、夢は是れ心の画図なり」と、また、 「人を知るは難くして易く、自ら知るは易くして難し、但し当にこれを夢寐に徴し以て自ら知るべし、夢寐自ら欺く能わず」と。 実にそのとおりで、良木は良果を結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。しからば夢はまた吾人の平素識らず識らずに思う心の鏡と称してもよかろう。かく考えると、睡眠を利用して修養の用に供することができそうである。
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自警録・第二十七章 夢の実用・夢と実際とは連絡することが多い子供が眠るときに、怖ろしい顔して叱ると、子供はかつ泣き、かつふるえつつ眠ってしまう。かくのごとき夜にむすぶ夢のなかには、あるいは鬼に襲われたり、あるいは化物に逢ったり、あるいは魘されたりして可愛ゆかるべき顔にも苦痛または恐怖の念がありありと顕れる。これに反し愛らしき物語を聞かせ、あたたかき愛情をもって、寝かしつけたときは、子供も天使に迎えられたり、あるいは極楽に連れられて楽しく遊んだりする夢を見、すやすやと眠る顔には笑をふくみ、いわゆる「子供の寝顔」となる。かく怖ろしき夢をむすぶも、吉夢を見るのも、ともに子供にとっては(大人にしても、同じであるが)、一つの精神的経験を構成する分子となる。目がさめるとともにあるいはこれを忘れてしまうかも知れぬが、しかもどこかに、子供の意識となって残り、すなわちいわゆる潜在識となって、なにかにつけて記憶にのぼってくるものである。 僕もかつて病いにかかり、体温の四十度を越したとき、夢に怖ろしき化物を見たことがある。眼がさめたのちも、化物は眼前にちらついて残っていた。けしからぬことであると、自分ながら自分を責め、これはまったく熱が高いためであると思い、試みに検温器をかけるとはたして高熱であった。かく精神は落ち着き、自覚したのちでも化物の形がハッキリと目に映じていた。このとき僕は独り病室におったので、かたわらにあったランプをつけ、目をみひらき、ばかなものを見たものと思いつつ、空中をにらんだが、なおその姿が髣髴として眼前に残っていた。むろん、これは病的であることを、僕はよく知っていた。しかしいかに病的とはいえ、みずから明瞭に自覚しておるにかかわらず、夢に見たことが、さめたるのちまでも、その現象の消え去らず、連続しておった。あるいは心理学者の一笑を招くかも知れぬが、いわゆる夢なるものといわゆる実際なるものとが連続しておることを考え、怪物の夢そのものよりかえっていわゆる実際のほうがおのずから怖ろしくなったことがある。
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自警録・第二十七章 夢の実用・夢は迷信として排くべきか年が明けて、来たるべき一年間の出来事を卜するためか、あるいはまた過ぎた年の厄払いのためか、正月の二日に、宝船を枕の下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの風を行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。 ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世にかさめんとすらん とは古き人の歎きであるが、いまも同感なる者は少なくない。 よく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も名僧知識も、いまだ容易に断定を下しえない。 夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦よりはまし と猩々庵原松の狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる暁が人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを憚るが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。 なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずと謡ったのも、もっとも至極の観察である。