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自警録 / 第二十七章 夢の実用・夢は一種の潜在識(2)

さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまだ猿であったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、諺に違わず、折々は木から落ちることもあったに違いない。われわれの祖先にとってはこれほど怖いことはない。悪く落ちれば絶命は必定であるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。したがってこのことは全身、全心に沁みこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の潜在識に化するにいたる。これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て冷汗をかかせる理由となる。 これについて奇態なことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。いつも夢の浮き橋で中絶するという風である。なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。 一斎翁の言に曰く、 「およそ人心の裏絶えて無きのこと、夢寐に形れず、昔人謂う、男、子を生むを夢みず、女、妻を娶るを夢みず、この言良に然り」と。 眠る時にもこの潜在識はひそかに働きつつある。ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、無垢であるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。 「夢は逆夢」とか、 「あたらぬものは夢とちょぼいち」 などいう諺は、夢をもって未来を卜する方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、逆夢ということもなくなって、「思うこと寝言」なう諺こそ事実に適うなれ。 杜甫の「夢李白」の詩に「故人入我夢、明我長相憶」と詠じたのも、後二条院の、 こひしさのねてや忘ると思へどもまたなごりそふ夢のおもかげ と歌われたのも、詩仙にかぎらぬ情である証拠は、われわれ凡人も折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。

書き下し

さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまだ猿であったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、諺に違わず、折々は木から落ちることもあったに違いない。われわれの祖先にとってはこれほど怖いことはない。悪く落ちれば絶命は必定であるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。したがってこのことは全身、全心に沁みこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の潜在識に化するにいたる。これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て冷汗をかかせる理由となる。 これについて奇態なことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。いつも夢の浮き橋で中絶するという風である。なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。 一斎翁の言に曰く、 「およそ人心の裏絶えて無きのこと、夢寐に形れず、昔人謂う、男、子を生むを夢みず、女、妻を娶るを夢みず、この言良に然り」と。 眠る時にもこの潜在識はひそかに働きつつある。ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、無垢であるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。 「夢は逆夢」とか、 「あたらぬものは夢とちょぼいち」 などいう諺は、夢をもって未来を卜する方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、逆夢ということもなくなって、「思うこと寝言」なう諺こそ事実に適うなれ。 杜甫の「夢李白」の詩に「故人入我夢、明我長相憶」と詠じたのも、後二条院の、 こひしさのねてや忘ると思へどもまたなごりそふ夢のおもかげ と歌われたのも、詩仙にかぎらぬ情である証拠は、われわれ凡人も折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。

現代語訳

さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年前、まだ猿であったか、あるいは猿のような生活を営んでいたころ、樹木の枝に宿り、木から木へと伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通の方法をとっていたとき、諺のとおり、ときどき木から落ちることもあったに違いない、というのです。私たちの祖先にとって、これほど怖いことはありません。悪く落ちれば絶命は必定ですが、幸い途中の枝にでも引っかかれば命だけは助かります。ところが助かった者には、永久に忘れがたい恐ろしい経験です。したがって、このことは全身全心に染み込み、死ぬまで記憶にとどまるばかりでなく、子孫の記憶にまで残り、人類の潜在意識になるに至ります。これがつまり、私たちの代になってもなお、ときどき現れ出て冷や汗をかかせる理由です。 これについて不思議なことは、高い所から落ちる夢を見ても、決して下まで落ちきった夢は見ないということです。いつも夢の浮き橋で途中で中絶する、というふうです。なぜなら、もし本当に落ちきった祖先がいたなら、必ず死んだはずです。死んだ経験が子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目が覚めるのです。このような夢は、自身でなくても、自身に関係の近い者が実際に経験したことに基づくものだと思います。 一斎翁の言葉にいいます。 「およそ人の心の中にまったく無いことは、夢にも現れない。昔の人は、男は子を産む夢を見ず、女は妻を娶る夢を見ないと言った。この言葉は本当にそのとおりである」 眠るときにも、この潜在意識はひそかに働いています。ですから、この潜在意識が純粋で潔白で無垢であるなら、眠る間に働く人生もまた無垢なものとなります。 「夢は逆夢」とか、 「あたらぬものは夢とちょぼいち」 などという諺は、夢で未来を占おうとするところから起こった言葉で、夢は過去の経験や思想から起こるのだとすれば、当たる当たらないの論も無用で、逆夢ということもなくなり、「思うことは寝言に出る」という諺こそ事実にかなっています。 杜甫が「夢李白」の詩に「故人、我が夢に入る、我が長く相憶うを明らかにす」と詠んだのも、後二条院が、 恋しさに寝て忘れるかと思ったが、なおも名残のように夢に面影が添うことだ と歌われたのも、詩仙だけでなく凡人の情であることは、私たち凡人もときどき経験して明らかで、これはつまり潜在意識の作用によることが多いと思います。

解説

高所から落ちる夢が途中で終わる理由を、新渡戸は当時の進化論的な説明で語ります。死んだ者の経験は遺伝しないから、落ちきる前に目が覚めるというのです。これは当時の学説に基づく推論で、現代の科学で確かめられた説明ではありません。むしろ読みどころは、佐藤一斎の言を引いて、夢は心にないものは現れない、だから潜在意識を清らかに保てば眠りの中の人生も清らかになる、という実践への結びつけです。日々何を心に入れるかが、見えない部分の質を決めるという示唆です。
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この章句が説くこと

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