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自警録 / 第二十七章 夢の実用・夢は迷信として排くべきか

年が明けて、来たるべき一年間の出来事を卜するためか、あるいはまた過ぎた年の厄払いのためか、正月の二日に、宝船を枕の下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの風を行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。 ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世にかさめんとすらん とは古き人の歎きであるが、いまも同感なる者は少なくない。 よく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も名僧知識も、いまだ容易に断定を下しえない。 夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦よりはまし と猩々庵原松の狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる暁が人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを憚るが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。 なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずと謡ったのも、もっとも至極の観察である。

新字:年が明けて、来たるべき一年間の出来事を卜するためか、あるいはまた過ぎた年の厄払いのためか、正月の二日に、宝船を枕の下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの風を行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。 ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世にかさめんとすらん とは古き人の嘆きであるが、いまも同感なる者は少なくない。 よく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も名僧知識も、いまだ容易に断定を下しえない。 夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦よりはまし と猩々庵原松の狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる暁が人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを憚るが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。 なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずと謡ったのも、もっとも至極の観察である。

書き下し

年が明けて、来たるべき一年間の出来事を卜するためか、あるいはまた過ぎた年の厄払いのためか、正月の二日に、宝船を枕の下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの風を行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。 ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世にかさめんとすらん とは古き人の歎きであるが、いまも同感なる者は少なくない。 よく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も名僧知識も、いまだ容易に断定を下しえない。 夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦よりはまし と猩々庵原松の狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる暁が人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを憚るが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。 なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずと謡ったのも、もっとも至極の観察である。

現代語訳

年が明けて、来る一年の出来事を占うためか、あるいは過ぎた年の厄払いのためか、正月の二日に、宝船の絵を枕の下に敷いて、めでたい初夢を見ようとすることは、わが国古来の習俗で、今もこの風習を行う者は何万にも達するでしょう。文明の今日になって、なおこのような迷信が行われているといって、これを憂える人もいるでしょうが、また一歩退いて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるかどうかと反問する余地があると思います。 夢よ夢、現が夢か夢が現か分からないことだ、いったいどんな世に目覚めるのだろう というのは古い人の嘆きですが、今も同感する者は少なくありません。 よく人は、「人生は夢のようだ」などと言います。人生ははたして夢なのか、夢でないのか。これは学者も名僧知識も、まだ容易に断定を下すことができません。 夢に死に夢に生まれる朝寝坊、起きて苦しみを知る釈迦よりはまし と、猩々庵原松の狂歌にあります。夢を見つつ眠っている間が人生なのか、目覚めた暁が人生なのか。これは哲学者や宗教家などに尋ねても、夢そのものが何であるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な答えを与えることはできないでしょう。まして私は、どちらが正しいか断言することをはばかりますが、しかしもし夢という文字を、真実でないこと、事実でないこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、私は断じて、人生は夢ではないと言いたい。 なぜなら、人生ほど現実的なものはありません。現実も現実、現実すぎるほど現実的なのは、まことに人生です。アメリカの詩人ロングフェローが、その『人生讃歌』で、人生は空しい夢ではないと詠ったのも、もっとも至極な観察です。

解説

ここから第二十七章で、夢を迷信として退けてよいのかを論じます。初夢に宝船の絵を敷く正月の風習から入り、人生は夢のようだという言い方に対して、新渡戸は人生ほど現実的なものはないと答えます。詩の引用は『人生讃歌』の趣旨を指していると読めますが、原文は詩題を『向上の詩』と記しています。夢を軽んじもせず、神秘化もせず、人生の現実を直視する姿勢が出発点になります。現代でも、年の初めに願掛けをする習慣の意味を考え直す手がかりになります。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

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