酔古堂剣掃 / 集醒・物情を察せざれば一生夢境
不近人情,舉世皆畏途;不察物情,一生俱夢境。
新字:不近人情,舉世皆畏途;不察物情,一生倶夢境。
書き下し
人情に近からざれば、舉世皆畏途なり。物情を察せざれば、一生俱に夢境なり。
現代語訳
人の情に寄り添わなければ、世の中はどこもかしこも恐ろしい道になります。物事の実情を見極めなければ、一生がまるごと夢の中のようになってしまいます。
解説
人の気持ちと物事の道理、この二つをわきまえることの大切さを述べた短い対句です。人情に近からざるとは、人の心の動きを無視して理屈だけで生きることです。そうすると周りと摩擦ばかりが起こり、どこへ行っても歩きにくい道、畏途になってしまいます。物情を察せざるとは、物事の実際の成り行きや仕組みを見ようとしないことです。そうすると現実から浮いたまま、夢を見ているような一生を送ることになります。人の心を思いやる力と、現実を冷静に見る力は、どちらか一方では足りません。仕事でも、関係者の気持ちを汲みつつ、数字や事実から目をそらさないという両立が、物事を前に進める土台になるでしょう。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
人情処世洞察現実修身
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