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自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・誤って翻訳した実例

この翻訳はなかなか難い。原文を精確に会得しなければ翻訳はできない。また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。ここにおいてわれわれは翻訳に拙い生活を送っている。 維新前に、どこかの殿様が行列を正して西丸近所を通って登城するさい、外国人が乗馬でその行列の鼻を乗切った。殿様はもとよりその従者も一方ならず憤慨し、殿はただちに通訳を召し、 「汝は言語もわかることであるから、あの人の無礼を糺してその場で切り捨ててこい」 と命じた。通訳は「かしこまりました」といって、その外人を呼びとめ、 「私の主人なんの守という大名が登城の途中に、貴方の馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋の鞍が面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また乗人も見事に乗っている、あの外人にお頼みして鞍を見せてもらうことはできまいかと申します。途中でお止め申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。主人が駕籠をおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、駕籠の前に来て見せてくださらぬか」 という。外人は得意になって、駕籠のそばに来たり鞍を見せんと下馬し脱帽して挨拶した。そのとき通訳官は、 「この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にも命だけはお許しを願いたい」 と申し上げる。殿様も外人が下馬して脱帽しわびることなら許してつかわせといわれた。そこで通訳は外人に向かい、 「見事なお鞍を拝見してありがたい。駕籠のなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております」 という。外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことは始めてで、名誉なことであると喜び、再三脱帽したあとで去った。通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、 「苦しゅうない、苦しゅうない」

書き下し

この翻訳はなかなか難い。原文を精確に会得しなければ翻訳はできない。また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。ここにおいてわれわれは翻訳に拙い生活を送っている。 維新前に、どこかの殿様が行列を正して西丸近所を通って登城するさい、外国人が乗馬でその行列の鼻を乗切った。殿様はもとよりその従者も一方ならず憤慨し、殿はただちに通訳を召し、 「汝は言語もわかることであるから、あの人の無礼を糺してその場で切り捨ててこい」 と命じた。通訳は「かしこまりました」といって、その外人を呼びとめ、 「私の主人なんの守という大名が登城の途中に、貴方の馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋の鞍が面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また乗人も見事に乗っている、あの外人にお頼みして鞍を見せてもらうことはできまいかと申します。途中でお止め申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。主人が駕籠をおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、駕籠の前に来て見せてくださらぬか」 という。外人は得意になって、駕籠のそばに来たり鞍を見せんと下馬し脱帽して挨拶した。そのとき通訳官は、 「この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にも命だけはお許しを願いたい」 と申し上げる。殿様も外人が下馬して脱帽しわびることなら許してつかわせといわれた。そこで通訳は外人に向かい、 「見事なお鞍を拝見してありがたい。駕籠のなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております」 という。外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことは始めてで、名誉なことであると喜び、再三脱帽したあとで去った。通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、 「苦しゅうない、苦しゅうない」

現代語訳

この翻訳はなかなか難しいものです。原文を正確に理解しなければ翻訳はできませんし、訳す先の言葉がわからなければ適切な翻訳もできません。原文を誤解し、日本語も誤解している者が訳せば、できあがった翻訳がろくなものでないのは当然です。それと同じで、私たちがとかく思うように理想に近づけないのは、理想が正確でなく、実行もはっきりしないので、翻訳の仕方がわからないからです。こうして私たちは、翻訳の下手な生活を送っています。 幕末より前のことです。どこかの殿様が行列を整えて江戸城の西の丸近くを通って登城する途中、外国人が馬に乗ったまま、その行列の先頭を横切りました。殿様はもちろん従者も一通りでなく憤慨し、殿様はただちに通訳を呼んで命じました。 「お前は言葉がわかるのだから、あの者の無礼を問いただして、その場で斬り捨ててこい」 通訳は「かしこまりました」と答え、その外国人を呼び止めて言いました。 「私の主人の、なんとかの守という大名が登城の途中で、あなたが馬に乗っておられる姿勢をご覧になり、西洋の鞍は面白い、まだ見たことがないのでぜひ拝見したい、乗り手も見事に乗っている、あの外国人に頼んで鞍を見せてもらえまいか、と申しております。途中でお止めしてまことに失礼ですが、せっかくの望みですので、見せていただきたい。主人が駕籠を降りて来るのが本当ですが、あなたは乗馬がお上手ですから、駕籠の前まで来て見せてくださいませんか」 外国人は得意になって駕籠のそばまで来て、鞍をお見せしようと馬から降り、帽子を取って挨拶しました。そのとき通訳は殿様にこう申し上げました。 「この外国人は、まことに恐れ入りましたと言い、このように帽子を取ってお詫びを申し上げています。何とぞ命だけはお許しをと願っています」 殿様も、外国人が下馬して脱帽して詫びるのなら許してつかわせ、と言われました。そこで通訳は外国人に向かって言いました。 「見事な鞍を拝見してありがたい。駕籠の中からでまことに失礼ではあるが、ご苦労であったと厚く礼を申しております」 外国人は恐縮し、日本に来て大名と直接お話ししたのは初めてで、名誉なことだと喜び、何度も脱帽したあと去っていきました。通訳が、あのように何度も帽子を取ってお詫びを申し上げています、と言うと、大名は言いました。 「苦しゅうない、苦しゅうない」

解説

理想を行為に訳す難しさを、幕末の通訳の逸話で笑いに包んで示します。無礼を斬れという命令と、鞍を見せてほしいという願いは正反対ですが、通訳が間に立って双方を丸く収めます。新渡戸は、この通訳の腕前と、私たちが理想を行いに訳すときの手口とを並べて見せるのです。原文の理解が浅く、訳す先の言葉も知らなければ、訳は粗末になる、という指摘は、方針と現場の言葉が噛み合わない組織にも当てはまります。
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この章句が説くこと

翻訳通訳誤解理想実行幕末

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